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 グリ−ンツ−リズム

森につつまれ、土に親しむ


1999年地区公民館で発表した原稿から

             宝の山
わが地区は松本市の東の玄関口・奥座敷である。
松本市全域をしのぐ面積をもち、地区内総面積 7666町歩のうち、90%が山林である。

広大な山林は、山岳都市といわれる松本の魅力ある景観であり、憩いの場である。美ヶ原観光の整備は松本市がかかえる重要な課題であり繁栄への基盤である

しかし現状は松本市の中心市街地や空港、長野道インタ−、安房トンネルへのアクセスなど西部方面の活発な公共投資にくらべ著しく施策が遅れている。

                  山と共存
明治の初期、筑摩県への報告書に入山辺は「食糧生産の田畑がすくなく、住民は早朝から夜遅くまで働いても糊口をしのぐに困難」と書かれている。
平坦地の農民でも苦しい封建時代に人口密度がたかく、耕地の少ない入山辺の住民はこの報告書どうり悲惨な生活だったと歴史研究者も理解している。

これには入山辺の住民として反論する。まず報告書の書かれた明治の初期には、文書の書き方に江戸時代の名残りがあり、お上に哀れみを訴える形であった。卑屈に惨状を述べお慈悲をねがいお恵み、免租を受けようとした。

つぎに入山辺は薪炭や材木を扱う労働者が多く住み着いた。特に松本城が築かれてから400年その傾向がすすみ、いづこも貧しい時代に生活のできる場所が入山辺であった。

昭和30年代化石燃料になり、40年代外材が入るまで城下町の竈や建築材をささえ山林と共に生きた入山辺は、これからも山と共存しなければならない。

              今、なにをすべきか
入山辺には道祖神、史跡・民俗行事など貴重なものがあり、豊かな自然にかこまれた暮らしは都会人にたまらない魅力である。
地域の文化と自然を活用して心を癒す場所づくりをすべきだと考えている。

目玉は下火になっているとは言え名前の売れている美ヶ原・三城であり後述のグリ−ンツ−リヅムである。

美ヶ原・三城には戦後2回の観光ブ−ムがあった。第一次は戦後の荒廃と物資不足のころ自然の中に心を癒す場を求めた時代である。現在60、70歳台の人たちに美ヶ原登山経験者は大変多い。バスを利用し、あとは歩く登山であった。

第二次ブ−ムは昭和30年代でマイカ−の普及と34年に天狗の路地まで車道ができて絶頂期をむかえた。
しかし、48年にマイカ−の転落事故があったことから松電バス以外は通行止めになり登山者は減少した。また、ビ−ナスライン開通は56年であるが、東信に重点がおかれて松本側に流れる車は1〜2割といわれる。

こうした経過の中で入山辺の有識者は、常に美ヶ原・三城を目玉とした観光開発と財産区の保全を唱えていた。29年に松本市へ合併の前後、財産区が地区発展のため投じた金額は現在に換算すれば何十億円となるだろう。残念ながらその後、材木の価格低迷で独自の施策ができなくなった。

地元選出の県議が党派をこえて毎年県に5・6件の要望事項を提出している。その中に常に大仏ダムと美ヶ原台上道路問題があるが、一向に進展がない。どちらも世論とに大きな開きがあって、結論を待っていては我々のライフサイクルは設計がたたない。

時期がくれば何とかなるとの考えをあらため、特徴ある地域性や有利性を生かして独自の楽土づくりをめざすべきであろう。住民が動けば政治も世間もついてくる。

    あこがれの田舎ぐらし
         … グリ−ンツ−リヅム(長期滞在型農業)

衣食住すべてに事欠いた戦後がいつ終わるか深い関心があった。それは物質ばかりでなく精神的に安定し、心の豊かさを求めるようになった時であり、自由主義が根づいて民主主義が自分のものとして機能する時代を迎えた時と考えていた。

現実は物欲に際限なく、社会構造も経済論理最優先で動いている。足るを知った文化の香り高いバラ色の時代を迎えることは出来なかったが、着実に「あるべき姿」に気づいて行動する人が増えてきた。

人間は生きることの究極まで考えると、身のおきどころを田舎暮らしの中に求める。
コンクリ−トとアスファルトの都市生活から離れ、ある程度長期に田舎暮らしをして農業を楽しむのである。

グリ−ンツ−リヅムはそうした生き方で、長期滞在型農業と訳される。
近隣では四賀村がクラインガルテンと言う施設を造って受入れ体制をととのえ好評である。 ほかにも奈川村など過疎化に悩む村々が真剣に取り組んでいる。過疎化は時代や世間から取り残されることである。

入山辺の場合、景観・自然・交通と好条件がそろっている。荒廃の目立ってきた農地を活用し、空いている蚕室などを改造して貸し出せば出費が少なく現金収入が得られる。

人間は一人で生きられない動物である。新しい人間関係は活力をもたらし、老人世帯であったら生きがいを見出す。

              連携した取り組み
松本城に来て、駐車場に車をとめても、そこは駐車場だけ。団体で食事のできるところ、みやげを買えるところは地図で探さなければならない。 そこで、松本城だけ見て、あとは安曇野ということになる。不案内な旅人の立場を考えた施設づくりや情報提供が求められる。

お客に親切な地域づくりが自分を生かす道となる。入山辺の場合観光客が入り込むことで、先ずよもぎこば有料道路の通行量がふえる。キャンプ客は100%ひのきの湯を利用する。 沿道サ−ビスのガソリンスタンドや商店、地域の特徴ある青果物などみやげの売り上げに波及する。

視点を変えれば露天風呂が近くにあるキャンプ場が好まれ、サ−ビス施設が整っていればよろこばれる。 相互の連携で個々の力では不可能な、経営規模の大きな地域施設となる。

お客の立場に立てばいろいろな欲求がみたされ、情報が整っているところを望むのは当然である。
経営規模の小さな入山辺の農産物は直売により収益をあげ、後継者問題、荒廃地問題の解決につながっていく。

                 発想の転換
鈴木慎一さんの鈴木メソッドは世界に知られている。発祥の地で本部のある松本でどうしてもっと顕彰されないのか日ごろ不思議に思っている。

サイトウキネンフェスティバルは松本が世界に誇れるイベントであるが、小沢征爾さんが松本に決めた要因は鈴木メソッドにあるとのこと。
かってウイ−ン少年合唱年団の日本公演を、天使の声と感銘したことがある。

鈴木メソッドもウイ−ン少年合唱団のように常時公演したり、演奏旅行ができるような環境づくりをすることが松本の音楽レベルや名声をたかめる

より日常的に身辺にあるものを大切にすることが「地に足がついた」ということなのである。

他所の真似だと、いつも後塵をかぶることになる。これからの時代は一層地域の特徴あるものが大事になる。 澄んだ水や空気は都会人に「おいしい」と言わせる。

星空はどんな宝石よりきらめいて映り、深い森林にかこまれて安心感を味わう。森には命をはぐくむ匂いがあると言う。

歴史遺産もそこにしかない、文化である。 毎日暮らしているうちに当たり前にしているもの、感じなくなっているものの価値を見直したい

テレビで東北の名物そば味自慢があった。番組の最後に「名の売れた信州にかないません」と言っていた。売れた名はもっと利用すべきだと思う。

                 補足

  グリ−ンツ−リヅム( 長期滞在型農業)は市民農園とちがう

  取り組みまでの経過
地元の約10年をはじめ、37年の郵便局生活を平成元年にやめた。
定年は60歳なのに56歳の脱サラは地位や金を中心に考えれる人にすれば、一番有利な4年間を棒に振ったことになる。

郵便局暮らしには結構満足していた。人の3倍働いたと自負している。
ただし契約で売ったのは8時間。あとは家族や自分の時間が8時間。
寝るのが8時間としていた。

自然とより深くかかわった暮らしをしたいので退職した。

自然の中の暮らし、農村回帰の願望を多くの人が持っている。
参照
・秋山豊寛 著 「農をめぐる旅」
・小松恒夫 著 「百姓入門記」
・長野県森林公社が作業員募集をしたら3倍の応募があった(新聞報道)
・何年か前、木曽の何処かの村で山林労働者を雑誌で募集したら30倍 位の応募があった(新聞報道)
四賀村のクラインガルテン
グリ−ンツ−リズムのひとつである。好評でその後も追加設備している

そば栽培の会
1999年現在で4年目を迎え、メンバ−50名。栽培面積は3反歩。一昨年は200kg、昨年は台風や雨続きの不作で120kgの収穫であった。
会の目的
* 自然・農への回帰
* 本物志向 標高1400米で霧そばを栽培し、自分で打ってたべる。
* 農地の保全 … 荒廃農地を防止、景観向上
* 地域活性 … 自己営業のためになり、料金所、ひのきの湯、沿道サ  −ビス業直売所に波及する。

現在の3反歩は会員50名規模であるが、希望が多くなれば制限なしに拡大する。
行政の支援を受けず、仲間とやっているが、未だグリ−ンツ−リヅムのテストケ−スである。
多くの人が安い料金で、長期に滞在して田舎ぐらしを楽しむ形づくりを目指している。。
ぶどう畑、水田、山林をなど素材には事欠かない。



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