平成15年9月6日『槍ヶ岳山荘・第25回播隆禁』講演

               「ネットワーク播隆」代表・黒野こうき

山の播隆 里の播隆

 はじめに わたしが代表を勤めさせていただいている「ネットワーク播隆」

は、槍ヶ岳開山で名高い播隆上人の研究を目的に作られた研究団体です。富山県大

山町の生家・中村家、岐阜県揖斐川町にある播隆開山寺院・一心寺、岐阜市の開山

寺院・正道院、今日の播隆祭に合せて播隆上人追慕登山を毎年実施されている播隆

上人奉賛会の玄向寺、関連の市町村で播隆を研究されている郷土史家の方々をはじ

めとする関係者の皆さん、あるいは全国各地で播隆さんにこころを寄せる個人の皆

さんなど、現在約80名ほどの小さな研究会ではありますが、播隆さんの史実、正確

な実像を勉強しようとシンポジウムの開催、研究誌の発行などを行なっています.

 わたしも播隆さんの調査、研究をとうして(無理矢理?)山の魅力、山登りの楽

しさを教えられた一人ですが、今日は登山、山岳という視点ではなく、私たちが行

なっている播隆研究の方面から播隆さんのお話をさせていただきます.よく目にす

るのは近代登山、アルピニズム、登山家として播隆さんを解明したものが多いよう

です。播隆さんはあくまでも念仏行者であり、登山は目的ではなく手段、槍ヶ岳開

山は登山が目的ではなく、登拝信仰のための開山でした.祈りのかたちとして槍ケ

岳登山があったのです.

         ただ歩くだけのことだが山登り

         一歩づつ祈りのかたちになる槍ヶ岳〈こうき)

◎山の播隆 里の播隆 山岳史に遣る播隆の足跡、功績としては岐阜県の南宮山

山籠、伊吹山禅定、笠ケ岳再興、そして槍ヶ岳開山、穂高岳登頂などが主なもので

す。『笠ケ岳再興記』、『槍ヶ岳絵図』などは登山史上貴重な史料となっていま

す。あまり知られてはいませんが、播隆は槍ヶ岳開山の後に穂高の山頂に名号石を

安置しています.槍ヶ岳には五回〈文政9年、11年、天保4年、5年、6年)、登

頂、登山というよりも修行のために登る山籠修行を行なっています.たとえば天保

5年の4回目のときは、史料によれば53日間の山籠を行ない、その問に山頂を平ら

にし、新たに仏像を一体加えて槍ヶ岳寿命神とし、ワラで作った「善の綱」を山頂

に架けた。それは山頂をきわめるための登山ではありません。はからずも山岳史に

遺された播隆の功績を、近代登山の視点から理解しようとすると播隆の実像を誤る

ことになってしまいます.山の播隆を理解しようとするならば、当時行なわれてい

た山岳仏教、修験道などの視点が必要です。近代登山的な十分な食糧、装備云々で

はなく、当時の宗教的な行法、播隆の実践していた戒律などを知る必要がありま

す.播隆はほんものの念仏行者であり破戒僧ではありません。山の播隆は厳しい山

岳のなかで連を求めた、言ってみれば求道者としての播隆さんなのです。

そんな播隆さんに帰依し、播隆を支えたのが念仏講の人々でした・わたしが確認

した現在も継続されている播隆念仏請は20数ケ所もあり、名号碑(南無阿弥陀仏と

播隆の字で刻まれている石碑)は現在確認しているだけでも約80基、名号軸(播隆

が書いた南無阿弥陀仏の軸)をはじめとする墨跡頬は約150幅、その中には槍ヶ岳

念仏講と記されたものもある。調査の過程で判明してきたことは、当時多くの民衆

に支持、帰依されていた播隆の実態でした。今までは槍ヶ岳開山という山の播隆と

いう面が強調されていましたが、里の播隆、下界にあって民衆とともに生きていた

播隆さんの姿を忘れてはいけない。里の播隆は播隆さんの実像の裾野なのです。

 山の播隆が求道者の播隆さんならば、里の播隆は布教者としての播隆さんです。

求道と布教は紙の裏表なのです。独り山頂で修行に励むだけの行者ではなく、登山

道を整備し、山頂に書の綱を架け、念仏請の人々を槍ヶ岳の山頂へと導いたのが播

隆でした。その登山は登拝信仰であり、富士請、御岳請のような「槍ヶ岳念仏講」

でした.笠ケ岳再興の時に播隆は、笠ケ岳の山そのものを仏像の台座にたとえてい

ます.そしてその台座の上、山頂に阿弥陀如来がほんとうに来たのです。今でいう

ブロッケン現象が現われたのです。笠ケ岳で拝した御来迎(ブロッケン現象)によ

って、播隆はその登拝信仰を確立したのだと思います。善の綱(仏像の指に綱をむ

すんで長く伸ばし、参詣者はその綱に触れることで仏縁をむすぶ)と名付けられた

鉄鎖を苦労してよじ登り、槍ヶ岳の山頂に立った登山者が眼前に丸い虹を見た時、

それはまさに仏の出現、御来迎なのてす。そして、江戸時代に私たちの祖先が播隆

さんに導かれて槍ヶ岳の山頂に立った事実を忘れてはいけないと思うのです。

 槍ヶ岳開山は播隆さんたちによって行なわれた信仰上の事業ですが、それに先行

するかたちで飛州新道の建設が行なわれていました。飛騨と信州を山越えでむすぶ

最短距離の新道作り、現在の安房トンネルと同じ発想のもの。距離の長い野麦街道

に対して、松本から三郷村、大滝山、上高地、焼岳の中尾峠、上宝村を通る最短コ

ースの飛州新道、その事業にかかわっていたのが槍ヶ岳開山にさいして播隆の案内

役として涌躍した中田又重でした.道路作りという当時の経済界、商業上の動きが

あり、その飛州新選をアブロ−チとして使い、多いときは約250人ほどの杣人が上

高地に入り、ニノ俣にも杣小屋があり(播隆窟の存在もすでに知られていたのでは

ないか)、それらの情報を得て槍ヶ岳開山は成されたと思われ、時代の流れの中で

槍ヶ岳開山が果たされたのです。飛州新道は播隆と中田又重の出会いの場でもあ

 り、槍ヶ岳開山の重要な要素であったのです。

●播隆の生涯 前後しましたが、ここで播隆さんの生涯を史料から判明している

史実、足跡をかんたんに紹介したい。天明6年(1786)、播隆は越中国河内村〈富

山県大山町)の中村家に生れた〈戦後になって生年天明2年、行年59歳の説が通説

のようになったが、近年の研究により天明6年となった)。出家する前のことは諸

説色々と言われていますが、お坊さんになろうと十代のときに家を出、日連宗など

も遍歴し、19歳のときに尾張の尋盛寺に入り、29歳で関東十八檀林の一つである江

戸の霊山寺で浄土宗の正式な僧となった。見仏の弟子となって仏岩と名のっていた

時期もあり、京都の一念寺の蝎誉上人のもとで修行していたこともあったようであ

る。この見仏、蝎誉については調査、研究中であり、定かなことはわかっておりま

せん。伊吹山、飛騨の「杓子の岩屋」など美濃、尾張、飛騨などを中心に各地で修

行、布教活動を行ない、民衆の中で念仏行者として活躍していた。38歳の文政6年

1823)には笠ケ岳の再興、41歳の同9年に一回目の槍ヶ岳登山、同11年に槍ヶ岳

開山(山頂に仏像安置)。下山した里の播隆は休むことなく各地を遊行、現在まで

遣る播隆開山寺院は揖斐川町の一心寺、岐阜市の正道院があるが、播隆はほとんど

寺院にとどまることはなく、山岳を道場に民衆の中にあった。天保の飢饉のあおり

で一時は山頂に架ける鉄鎖が差止められたが、天保11年に槍ヶ岳の山頂に「善の

綱」鉄鎖が架けられ、同年10月21日、美濃加茂市中山道太田宿の脇本陣・林家にて

死去、行年55歳であった.墓は現在4ケ所あり、分骨されて大山町の生家墓地、揖

斐川町の一心寺、岐阜市の正道院、美濃加茂市の祐泉寺にある。

 なお、広く読まれでいる新田次郎の小説『槍ヶ岳開山』について一言述べておき

ます.内容については全編にわたって新田氏の創作、フィクションですので、史実

として読むことのないようにお願いしたい。小説を史実として読まれる方が多くて

囲っています.(史実と小説との違いについて詳しく知りた一い方は「ネットワーク

播隆」発行の『播隆研究第四号』をお読みください)

●結びにかえて 山岳に関する課題としては、播隆によって穂高岳に安置された

名号石の発見。どのルートで、穂高のどの峰に。また、笠ケ岳に安置された九体の

石仏の確認、そして当時の登山ルートの解明。あるいは槍ヶ岳の初登頂と開山につ

いて、わたしは登山関係者が気にする初登頂と、播隆が考えていた開山とは意味が

違うと考えています(播隆自身は開山という言葉は使わず開闢と言っている)。

 里に眠っている史料の発掘、確認.そして、保管など。私たちの「ネットワー

ク播隆」はまだ歩み始めたばかりである。

 御静聴、有難うございました。

                     


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