播 隆 上 人 を 偲 ん で |
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![]() | 槍ヶ岳との出会い |
前人未踏の3,180メートルの高峰―――。僧・播隆が初 めて槍ヶ岳を望見したのは、文政6年(1823)6月のことであった。飛騨山脈の霊峰・笠ヶ岳登山を試みた彼
は、群山を圧してひときわ高くそびえる槍ヶ岳を眺め、その霊感に打たれ魅せられたのであろう。 天明6年、越中に生まれた播隆は、生涯のほとんどを一介の苦行僧として過ごした。混濁の世俗を捨て仏門に入 ったはずの彼だが見たものは、やはり俗界同様のみにくい 風潮がみなぎる宗門の内情であった。深山幽谷での修行 に入った播隆は、やがて槍ヶ岳開山の悲願を抱くに至る。 天を突き刺すよう鋭峰の頂きに、清浄静寂な極楽浄土 への道を発見したからにほかならなかった。 |
初 登 頂 | |||||||||
播隆の笠ヶ岳再興登山の頃、信州と飛騨を結ぶ最短の道として飛騨新道(飛州新道とも云う)が工事中であった。これより以前、岩岡村庄屋伴次郎や小倉村の中田又重郎らが飛騨高原郷の本覚寺の椿宗(ちんじゅう)和尚を訪ね新道開削のため飛騨側の協力者を求めていたが、協力者が得られなかったので信州側だけでも工事をしていた。したがって播隆は椿宗和尚を介して信州側の事情を知っていたと思われる。
各地を布教して文政9年(1826)の夏、信州小倉村の鷹匠屋の中田家を訪れ、槍ヶ岳開山の宿願を述べたと思われる。以降、5回にわたる登山行のすべてに中田又重郎は案内を務めることになる。この年は途中までの登山にとどめ。もっぱら頂上へのルート研究に終始した。 初登頂は2年後の文政11年(1828)7月20日のこと。筆舌に尽くし難しい辛苦を重ねた2人が頂上を踏みしめたとき、5色に彩られた虹の環の中に阿弥陀如来の姿が出現した。感動的な御来迎の奇蹟(ブロッケン現象)である。 その後、松本郊外の浄土宗の玄向寺を知り度々世話になり槍ヶ岳に鉄鎖がかけられた時には播隆は玄向寺で病気で療養中であった。中田又重郎の協力がなければ槍ヶ岳開山はなかった。 |
頂 上 へ の 鉄 鎖 懸 垂 |
播隆は開山のために一心不乱になった。槍ヶ岳の頂上にかける悲願は、 衆生済度のための開山にあった。己れを律し、ひたすら苦行に励む播隆の法話は
民衆の心を打ち、開山の資へと結びついた。5回にわたる登山の末に彼はあとに 続く者の安全を図り、一人でも多く登山ができるように、槍ヶ岳の岩壁に鉄の
鎖を懸けるための浄財集めにも奔走した。 当時の鉄は今日では考えられないほどの貴重品であったにもかかわらず、信者達から、はさみ、包丁、鎌などが寄進された。鉄鎖は完成して小倉村へ運ばれたが、当時、凶作 が続いたため松本藩は鉄鎖を懸けることを禁止。実現は4年後の天保11年 (1840)に持ち込まれた。播隆は病を得て玄向寺で病気療養中であったが、又重郎ら信者達により鎖がかけられた。この時、播隆は55歳の高齢に達し、鉄鎖の懸垂を見届けるかのように大往生した。 |
大 い な る 初 期 ア ル ピ ニ ス ト |
播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山した。“日本近代登山の父” と呼ばれている英人ウェストンが日本アルプスを世に知らしめるより65年も前
のことである。 播隆が頂上に祠を建立し、後に来る者のために危険な個所に鎖さえ準備した物 語は、「大いなる初期アルピニスト」の尊称を授けられてよいのだが、彼の功績 を知る人は余りにも少ない。 いま、JR松本駅前から鋭峰を見つめる上人の孤高のブロンズ像は、「人はなぜ 山に登るのか」という永遠の問いに無言で答えているかのようである。 |
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| 天明6 | 越中国新川郡太田組河内(かわち)村(現・富山県富山市河内)に生まれる。 | |||
| 文化元年 | 19才出家、京都・大阪で修行する。 | |||
| 文政4 | 飛騨高山郷岩井戸村杓子の窟で修行。 | |||
| 文政5 | 再度、杓子窟で参籠し越年す。。 | |||
| 文政6 | 笠ヶ岳登山道を修復して登山。 | |||
| 文政7 | 笠ヶ岳4回目の登山で、道標に石仏、頂上に銅像を安置し、 対峙する槍ヶ岳を望み槍ヶ岳登山を決意した。 |
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| 文政9 | 槍ヶ岳第1回登山(槍の肩付近まで登り、登路を視察) 案内:中田又重郎 |
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| 文政11 | 7月20日 槍ヶ岳初登頂。 8月 1日 穂高岳にも登頂。 |
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| 天保4 | 槍ヶ岳第3回登山。 | |||
| 天保5 | 槍ヶ岳第4回登山。槍ヶ岳に「善の綱」をかける。 | |||
| 天保6 | 槍ヶ岳第5回登山 | |||
| 天保11 | 槍ヶ岳に鉄鎖がかけられ、大願成就する。 10月21日 美濃国太田にて大往生55才。 |