| 氏 名 | 生年・没年 | 業 績 等 | ||
| 1 | 松原 葎斎 | まつばら ほうさい | 1825〜1898 | 松本丸ノ内に生まれる。藩学の教官から県学の教官になり、開智学 校勤務。教授法を研究。 |
| 2 | 永山 盛輝 | ながやま もりてる | 1826〜1905 | 筑摩県権令として教育を重視。学校の普及に努め、開智学校を建て る。 |
| 3 | 立石 清重 | たていし せいじゅう | 1829〜1894 | 筑摩県権令永山盛輝の命を受けて、開智学校の新築工事の棟梁とな り、その設計と施工に当たった。 |
| 4 | 大野 誠 | おおの まこと | 1834〜1884 | 明治14年から3年間長野県令を勤める。教育行政では、県立中学校 の創設、師範学校の松本統合、師範学校附属小学校設置。 |
| 5 | 大田 幹 | おおた こわし | 1834〜1906 | 明治8年東筑摩郡一番小学校開智校主席として来任。明治12年自由 民権を主張して、奨匡社を松本に組織する。 |
| 6 | 飯田 正宣 | いいだ まさのぷ | 1847〜 | 明治初期の教員養成指導者。開智学校の大訓導兼幹事として来任。 後に、師範講習所教員として、正則教授を演示。 |
| 7 | 浅岡 | あさおか はじめ | 1851〜1926 | 明治19年長野県師範学校長として赴任。同年創設された信濃教育会 の初代会長となる。附属小学校・幼椎園を開設。 |
| 8 | 能勢 栄 | のせ さかえ | 1852〜 | 明治15年長野県知事大野誠に請われて長野県師範学校長となる。ペ スタロツナの開発主義を導入し、信州教育の礎を築いた。 |
| 9 | 南島 安正 | ふくしま やすまさ | 1853〜1919 | 松本の西町に生まれる。軍人で陸軍大将、シベリア単騎横断に成 功。河原操子の父の友人で小里頼永とも友人。 |
| 10 | 小林 有也 | こばやし うなり | 1855〜1914 | 松本城保存に尽力した初代松本中学校長。学校内に天守閣保存会を 設け、松本域天守の修理保存に努めた。 |
| 11 | 小里 頼永 | おり よりなが | 1855〜1941 | 30年間務めた初代松本市長で「国宝市長」といわれた。長いこと一 市一校制(部校制)をとっていたが、後に多校制を実施。 |
| 12 | 青木 貞三 | あおき ていぞう | 1858〜1889 | 松本師範学校卒業後、伊那郡の小学校に勤める。後に、上京して束 京攻玉社に入り英書を学ぶ。漢学も修めた。 |
| 13 | 今井 五介 | いまい ごすけ | 1859〜1946 | 松本製糸をもとに片倉製糸紡績鰍創設。信濃鉄道の敷設、電灯の 普及に努める。松商、松南高校の創設に関わる。 |
| 14 | 塩谷 吟策 | しおや ぎんさく | 1859〜 | 明治15年長野師範学校に勤務。同17年東筑摩教育会創立と共に不明 会長になる。開発授業の普及に努める。 |
| 15 | 上條 蛙司 | かみじょう ありじ | 1860〜1916 | 明治12年自由民権運動をめざす奨匡社の結成に指導的役割を果た す。その後、今井・生坂・笹賀などの小学校長を勤めた。 |
| 16 | 鳩山 春子 | はとやま はるこ | 1861〜1938 | 家庭教育において「父は友達、母は教師」といういわゆる分量主義 を主張。鳩山和夫と結婚し、共立女子学園三校の校長を勤めた。 |
| 17 | 寄藤 好害 | よりふじ よしぎね | 1863〜1928 | 松本開智尋常小学校長。松本尋常高等小学校長。校訓として「愛・ 正・剛」の大綱を示し、校歌・修学旅行などの先鞭をつけた。 |
| 18 | 河野 齢蔵 | こうの れいぞう | 1865〜1939 | 松本女子師範学校主席。附属主事等を歴任し、学校園を整備。ロツ クガーデンを松本中学校、松本第二中学校などに作る。 |
| 19 | 上原 三川 | うえはら さんせん | 1866〜1907 | 病気療養のため北里伝染病研究所に入院時に、正岡子規を知り、門 下に入る。後に、島内尋常高等小学校訓導、校長を歴任 |
| 20 | 堀内 桂次郎 | ほりうち けいじろう | 1867〜1922 | 明治29年大柳町の自宅に郁文学舎を始め、地方青年のための英語・ 数学・漢文を教授した。後に、私立郁文学校となる。 |
| 21 | 矢沢 米三郎 | やぎわ よねぎぶろう | 1868〜1942 | 長野県師範学校、後には松本女子師範学校で校長を勤めた。その 間、長野県の自然博物研究の先駆者として活躍した。 |
| 22 | 米沢 武平 | よねぎわ ぷへい | 1870〜1944 | 明治31年松商学園の前身、松本戊戌商業学校の校長として迎えら れ、松本商業学校に改名。昭和15年まで勤める。 |
| 23 | 木渾 鶴人 | きぎわ つると | 1871〜1919 | 明治33年私立松本戌戌学校設立。同35年松本戊戌商業学校と改称。 37年に校長退任。44年に松本商業学校。 |
| 24 | 河原 挽子 | かわはら みさこ | 1875〜1945 | 明治29年、長野県高等女学校教諭となる。その後、上海務本女学堂 教師となる。さらに、内蒙古の教育顧問となる。 |
| 25 | 窪田 空穂 | くほ た うつほ | 1877〜1967 | 歌人。筑摩郡和田村(現松本市)に生まれる。早稲田大学教授、毎 日新聞歌壇選者を務める。生家前に記念館がある。 |
| 26 | 手塚 縫蔵 | てづか ぬいぞう | 1879〜1954 | 教育者。時の文部大臣鳩山一郎が教育問題について諮問したとき、 「信州教育は、人格教育である」と喝破した。 |
| 27 | 小林 謹一 | こばやし きんいち | 1880〜1939 | 小学校教員のかたわら、俳句・短歌を親しむ。また、折口信夫を師 とし、民俗学に傾倒した。 |
| 28 | 小原 福治 | おはら ふくじ | 1883〜1965 | キリスト教精神に生きた教育者。山形、源池、長野県師範附属、波 多(現波田)などの小学校長を歴任。 |
| 29 | 赤羽 王郎 | あかはね おうろう | 1886〜1981 | 教育者、信州白樺運動の先達。本名は一雄。教職の後、松本で、雑 誌「地上」を創刊したり、謄写版印刷に従事。 |
| 30 | 二志 茂樹 | し しげ き | 1893〜1985 | 昭和16年から開智国民学校長、松本市教育会長を務める。後に信濃 史学会会長を務め、地方史研究を確固たるものにした。 |
| 31 | 川井 清一郎 | かわい せいいちろう | 1894〜1930 | 白樺教員弾圧の犠牲となった松本女子師範学校附属小学校の訓導。 「川井訓導事件」は、あまりにも有名。 |
| 32 | 青 木 誠四郎 | あお き せいしろう | 1894〜1956 | 東大助教授、東京家政大学長、学校法人渡辺学園長を歴任。戦後の 信州教育に尽力し、児童心理・青年心理学を指導した。 |
| 33 | 小岩井 是非雄 | こいわい ぜひお | 1894〜1981 | 昭和7年私立松本聾唖学院を発足。同25年7月までの18年間校長を 勤めた。その間、松本市立、長野県立移管に尽力。 |
| 34 | 上條 茂 | かみじょう しげる | 1895〜1954 | 教育者。教育実践研究者。戦前戦後にわたり県下教育研究のために 指導的役割を担う。 |
| 35 | 櫻井 武平 | さくらい かへい | 1896〜1965 | 長野師範卒業後、木曽福島小学校で教鞭。以後、大阪府立女子専門 学校教授、松本高等学校教授、信州大学文理学部教授。 |
| 36 | 高津 作吉 | たかつ さくきち | 1897〜1951 | 中央における白樺運動を松本を中心に広げるため赤羽王郎らと活 躍。後に、東筑摩教育会長に選ばれた |
| 37 | 糸魚川 祐三郎 | いといがわ ゆうぎぶろう | 1897〜1967 | 岐阜県坂下町出身。松商学園短期大学、高校長。内村鑑三に師事し たクリスチャンで県教育委員長も務めた。 |
| 38 | 鈴木 鋲一 | すず き しん いち | 1898〜1998 | ドイツ留学後、才能教育を開始。戦後、松本市に才能教育研究所を 設け、江藤俊哉らの−・流バイオリニストを輩出した。 |
| 39 | 上條 憲太郎 | かみじょうけんたろう | 1901〜1977 | 教育者。禅家。県教育長時に、勤務評定に関する規則(長野方式) を定める。 |
| 40 | 臼井 吉見 | うす い よしみ | 1905〜1987 | ジャーナリスト・評論家。 |
| 41 | 池上 隆祐 | いけがみ たかすけ | 1906〜1986 | 農民運動及び教育振興の推進者。衆議院議員、県教育委員、学校給 食会理事長を歴任。松本交響楽団理事長も努める。 |
| 42 | 加藤 静二 | かとう せい | 1910〜1987 | 岐阜県出身。東京帝国大学医学部卒。昭和48年から信州大学長を努 める。眼科専攻。 |