松本の文学・民俗学の興隆に貢献した       胡桃澤勘内(クルミサワ・カンナイ)


1 生い立ち、略歴(1885〜1940)
 明治18年(1885)、東筑摩郡島内柑(現在松
本市島内)に生まれた。明治31(1898)年、
松本尋常高等小学校高等科を卒業後、信濃日
報社、松本銀行などに勤めるかたわら、小学
校時代の校長だった上原三川に師事し俳句を
学んだ。「馬酔木」に参加。さらに「アララ
ギ」にも加わって伊藤左千夫や長塚節らと親
交を結ぶなど、歌人としても活躍していく。
30代になると民俗学に傾倒。大正4年
(1915)、『松本と安曇』を出版。『郷土研究』
に投稿した緑で柳田囲男に認められる。『松
本市史』の編纂にも参画。昭和8年(1933)
松本市議会議貝に当選。信州に柳田囲男、折
口信夫を招碑するなど,この地方の民俗学の
興隆に貢献した。

2 教育界での活躍や業績
 「アララギ」に参加し、中央の歌人たちと
親交を結ぶなど歌人として活躍していた勘内
は、次第に民俗学に傾倒し柳田囲男に認めら
れるようになる。その頃の勘内を柳田は「文
章は平明にして親切、又珍しくむだが少な
かった。可なり正確に、たくさんの土地の事
情を記憶していて、ちょうど我々の学問の世
に出るのを待っていてくれたやうにも感じ
た。」と評している。
 大正6年(1913)、勘内は当時編集が進め
 られていた『東筑摩郡誌』の編集顧問を教育
会から委嘱され、その編集の仕事にかかわる
ようになった。勘内は、その具体的な研究力
法について柳田囲男に教えを受け、「文献に
頼らず、現地に赴き、自分の目や耳で体験を
通して学習する」、「一人の専門家ではなく、
研究者の養成を図りながら、大勢の研究者に
よって郷土誌をつくる」といった、当時とし
て斬新な方法を取り入れて編集を進めていっ
た。後にこの研究成果は、東筑摩教育会に
よって引き継がれ『郡誌』別篇として出版さ
れることになった。
 昭和7年(1932)、開局間もないNHK長
野放送局が「信州民俗講話」という番組で、
県内の民俗学研究者を集めて放送する試みを
した際、そこに柳田囲男、折口信夫が参加し
て光彩を添えたが、これも勘内らが中心に
なって企画をしたものであった。また、折口
信夫が松本教育会と親密な関係をもつ橋渡し
をしたのも、勘内であった。
 このように、勘内は松本平の地域の教育会
員らと密接にかかわりながら、文化の向上や
民俗学の興隆に大きく貢献した。
 勘内は、大正8年(1919)、「妖怪変化の退
転」を雑誌『信濃教育』に投稿した。以後、
「民俗の採集」「福間三九郎」「万葉集の話」
など、実に二十数篇の論文を同誌に発表して
いる。勘内の没後、昭和16年(1941)、『信減
数育』654号は、胡桃澤勘内の特集を組んで
生前の業績をたたえている。『信濃教育』か
会員以外の追悼号を出したのは、この号だけ
である。胡桃澤勘内が松本平の教育界はもち
ろん、長野県教育にいかに大きな影響を与え
たかを示す一例である。

引用文献
 『東筑摩教育会誌』
 市川本太郎著『長野県師範人物誌』