エクアドル共和国は南米大陸の北西部、赤道直下に位置します。太平洋岸沿いは年中暑く、バナナを始めとする熱帯食物が育ちます。中央部には万年雪をいただく5000級の山々が連なり、アンデス山脈が走っています。また、国の東部にはアマゾン源流地帯のジャングル、本土から約1000kmにはガラバゴス諸島があります。人口は約1200万人、公用語はスペイン語ですが、ケチェア語という部族語を話すインディオ(先住民)も人口の3割を占めており、地理的にも民族的にも大変変化に富んだ国です。 太平洋を隔て、地球の裏側にあるこのエクアドル共和国で、私は青年海外協力隊貝・短期派遣隊員として活動し、貴重な体験をすることができました。赴任したアマゾン・アンデス地域では現地の小学校に配属され、授業を行いました。 @1999年7月〜2001年8月 アマゾン地域の小学校での体験 この2年間は、教員養成学校の付属小学校で体育の授業実践をしました。幼稚部もありました。赴任当初一番苦労したのは、習いたてのスペイン語で授業を展開することでした。5歳児が45分間集中するというのはとても大変なことです。その上、私の初歩的なスペイン語の指示に子どもたちは意味がわからず、授業に飽きてしまい、私は毎日悩みました。 そんな時、私を助けてくれたのは、小学部の子どもたちでした。その日から子どもたちがスペイン語の先生になり、休み時間に慣用表現などを教えてくれました。おかげで少しずつスペイン語が向上し、エクアドル人の同僚とも話が弾むようになりました。エクアドルの学校の設備は日本のように十分ではありません。おそらく今現在でも、現状はあまり変わっていないと思います。体育の用具や備品はもちろん不十分でした。普段の授業は、半屋外体育館のコンクリートの床で授業をおこないました。プールも、もちろんありません。水泳の授業の会場は近くの川でした。これが開発途上国の教育現場の姿です。 授業は主に、日本の教育課程に沿って年間計画をし立てましたが、現実的にできないこともありました。体育で使用した教材は、前任の隊員が使用していた教材のマット・なわとびが残っているだけでしたので、教材が全くないところから、何を使用してどのように教えるかを考え出さねばなりませんでした。 ある日、3年生の子どもが家から壊れた電気コードを持ってきて跳び縄にしていたのが目に留まりました。その時、私ははっとしました。教材がないなら買おう、日本から取り寄せようと考えていたことがとても恥ずかしくなりました。また、ある日は、教室の片隅から古い靴下を丸めて作った布製のボールを発見しました。教材を作るヒントを得ることができました。今、ここにあるものを工夫して授業を行うことも、エクアドルの実情にあった体育の授業になるのかもしれないと感じました。とても人切なことを教えられました。 日本では全く考えられないことが起こるため、毎日ショックと驚きの連続でしたが、日本のようなやり方だけがすべてではない。地域や、状況に応じて、考え方や教え方も柔 |
軟になることが大切であり、そのことが言語・文化・習慣の全く違った国の人々(子どもたちも含めて)を理解することにつながるのだろうと思いました。 エクアドルは都市部と地方の教育環境の差があり、更にインディオの人々の住む地方には教室が1つあるだけで設備等にも人きな問題があります。また、物売りや靴磨きをして子どもが働き、家庭を助ける現実もあります。町の公園で靴みがきをして働いている子どもに話を聞くと、「来年度学校へ行くにためにも、働かなくてはならないんだ。学用品を買うために…。」と言っていました。考えさせられる一言でした。そして、日本の学校の現状が頭に浮かびました。当たり前のように物のある生活をしている私たち・・・。どもたちにとっても教師にとっても、日本の学校は大変恵まれていることを実感した2年間でした。 A2003年4月から半年間 アンデス地方の小学校での体験 2度目の配属先は、全校約65名の小さな私立の小学校でした。私は、体育・音楽・図工・折り紙の授業を担当しました。学校には障害を抱えた子どもや、生活が苦しい家庭の子どもも通っていました。 学校の経営は不安定で、子どもたちの授業料で職員の給料を支払っているため、私の同僚は月給約80ドル(日本円で約9000円)でした。当時、この額では1ケ月間生活していくのは大変困難です。学校の校舎は、民家を借りて教室にしていました。しかし、私の同僚は皆、学校建設の夢と希望を持って頑張っていました。エクアドルの子どもたちのために、未来のために、たとえ給料は少なくとも働くぞ、という姿に心を打たれました。私は、この学校の経験や同僚との出会いによって、日本で教員になることを決意し、現在に至っています。 エクアドルは経済的にも教育的にも大変な国ですが、エクアドルの人々の心にはいつも、明るさ・笑顔・そして愛がありました。多くの人に声をかけてもらい、抱きしめられ、血はつながっていなくとも家族のように大切にされたことを通して、私は自分が生まれた日本を大切にするのと同時に、エクアドル共和国の人々の幸せと発展も心から願うようになりました。今でも、エクアドルでお世話になった人とは手紙や電話で連絡を取り合い、無事を確認しあっています。 8年前、現地の人々のために何かできることはないかとエクアドルへ渡ったわけですが、私が実践したことよりも、実はより多くのことをエクアドルの人々から教えてもらいました。また、大学卒業後、すぐに教員になることに自信がなく悩んでいた私に、様々な経験をもたらし、私を大きく成長させてくれました。エクアドルに本当に感謝しています。 |
松本市教育会報 平成20年2月20日 第260号より