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美ヶ原の歴史


山岳に囲まれた松本盆地では、西の山波を西山、東の山波を東山と呼ぶ。

西山でも、北アルプスの岩峰と区別して、その前に横たわる樹林の山を前山と呼んでいる。


東山は向かって右に、お椀を伏せたような鉢伏山(1929米)。 左、山辺谷の奥に美ヶ原の茶臼山(2006米)、王ヶ頭(2034米)、王ヶ鼻(2008米)、武石峰(1973米)がある。
山容は見る位置によって大きく変化するが、特に標高差の少ない美ヶ原の峰々は僅かな移動で、時に連なり、また隠れる。
東山と総称する方が、天気を案ずるなど盆地住民の暮らしに便利なのである。


美ヶ原は100万〜80万年前、楯状火山の噴火で粘度の低い溶岩が広がって形成された。
地球の温暖期であった縄文前期には生活圏が高原上まで及んだと云われ、狩猟時代の美ヶ原は、生活の場所であった。
日本最大の黒曜石産地、和田峠へは三城から徒歩で3〜4時間の距離で、縄文時代に美ヶ原の山麓、大和合へ黒曜石を運び加工した跡がある。

地球の冷涼化で逐次低地移住したが、縄文中期まで山国が繁栄し、糸魚川を通じて日本海まで、片や関東から東北まで縄文文化が栄え、松本周辺はその「核」であった。
弥生時代からやがて薄川水系に稲作文化が入った後も、恵まれた自然で狩猟や採取の暮らしがあった。
したがって、美ヶ原越えの交流は新規に拓くまでもなく、古い歴史の延長線上にあった。

平安時代、信濃国府があった束間郡(松本)は律令政府の東北経営拠点であり美ヶ原の茶臼山や武石峠、保福寺峠が東国政策の交通要衝路であった。

当時、信濃には朝廷専用の牧場である勅旨牧(てしまき)が十六あり、勅旨牧を統括する牧監庁(もくげんちょう)が束間郡におかれていた。
牧監庁のあった中山に隣接する、美ヶ原山麓の桐原地籍に、桐原牧の伝承がある。
桐原地籍は現在ぶどう栽培地帯であるが、牧場としては狭い。
桐原は「キリハラ(霧原)」で美ヶ原を指し、桐原から王ヶ鼻直下の駒越集落をたどって放牧したと推察される。馬を牽いて3時間程度の行程である。
しかし美ヶ原に放牧されるのは5月下旬から11月上旬で、半年は山から降ろし厩で飼育となる。そこで美ヶ原はより古い「ウツクシ」の名が残り「キリハラ」は厩のあった山麓の桐原氏、桐原の地名に定着したのであろう。

美ヶ原牧場組合の沿革史では安閑天皇2年山辺霧原に馬を放ち、又治承年間宇治川の戦いで有名な名馬「するすみ」は当牧場に産し・・・と書いている。
美ヶ原山麓にある地名で、牧場に縁あるものとして駒越、厩所、牛立、追平がある。

化学肥料のなかった時代は「カリシキ」といって草や粗朶を田畑に入れて肥料とした。耕地の少ない美ヶ原山麓ではカリシキ材料を山地に求め、美ヶ原の武石峰へは昭和30年代まで草刈リに登り、1日2往復したと経験者は云う。

天文19年(1550)信濃の雄小笠原長時は、甲斐の武田晴信に敗れ山辺の城から敗走した。武田方に追従した周辺の陣容から、その間隙を縫った敗走経路は美ヶ原の武石峠越えである。

江戸時代、文録4年(1594)松本城が築城されてからの美ヶ原は藩政の下に用材
薪炭が伐り出された。
松本藩は5・6万石の小藩ながら、広大な西山や東山があり藩政は恵まれていた
耕地が少ない美ヶ原山麓の戸数、人口、馬の数が多かったのは、山に働く者の多かったことを物語る。

享保九年(1724)松本城主水野忠恒は家臣に命じ、領内の地誌をはじめ藩政のため三十二巻に及ぶ調査書「信府総記」を作成した。300年近い昔の信府統記に美ヶ原の地名がある。
凡例に述べる書名の由来は「州の中のてをす」の意で、当時としては稀な公式資料である。
地元では、美ヶ原を「ウツクシ」と呼ぶ。
美ヶ原高原でも美ヶ原でもなく、単純明快に「ウツクシ」で場所が特定できる。
放牧や採草、伐木や炭焼き、或いは山越えの中で、咲き誇る高山植物、神々しい景観に「ウツクシ」と云ったのではないか。

地名は本来、その土地に住む人々の生活上の便宜からつけられる符号である。
山名は山麓の住民が接し利用する中でその形状や植生、出来事などから付けられた。
山の向こうとこちらでは生活上の共有関係が生まれた時、呼び方が統一されたであろう。

呼び方は発音の変化があり、文字をあてはめたとき、元の意味と変わることがある。又、誤字当て字は日常であった。
例えば、「シロウマ」=代馬に白馬が当てられ、「ハクバ」となり、「カミグチ」=上口が上河内から上高地「カミコウチ」になっている。

古い地図をみると、美ヶ原の尾根まで沢や斜面にカナ書きの名称が入っている。
中にはアイヌ語を想像させるカブッチョ、カンジョ、シシメ、インダシ、コナコ、ニゾラシ、ノタノなどの名称がある。

陸地測量部の地図作成や近代登山の黎明まで、無名とか不統一な山名が多い中、「ウツクシ」が古くから定着したのは時代を超え「ウツクシ」と共感するからである。
美ヶ原の「ヶ」は「・・の」で、「ウツクシノハラ」の意味になる。当然ながら「ウツクシ」の台上に限定され、麓から頂上まで総称する「ウツクシ」とは違うが、いつしかそれが通用している。

計画で終わったが、万延元年北陸の加賀藩は江戸への通路として扉峠もしくは武石峠越えを調査した。数ある中で最短コ−スとして目をつけたようである。

現在の美ヶ原牧場は明治42年、東筑摩郡里山辺村の小岩井品三郎が入山辺・里山辺両村の共有林30町歩を借り、松本市内の牛乳屋の乳牛89頭を放牧したのが始まりである。

牧場経営は順調で明治44年には安曇平から馬も預かり、放牧頭数は200頭を超えた。この年7月には小県郡和田村字沢入の内芝100町歩を借りて牧場を拡大した。

美ヶ原の宿泊或いは休息施設の歴史は古い。薄川をさかのぼり茶臼山に登る途中の三城追平地籍で、戦後の開拓中に中国の古銭が見つかった。

明治の何時頃からか三城「ほうずきのくぼ」に花崎仙徳と云う人がいて竹細工をしながら笹餅、お焼きを売っていた。
寒天づくりもしたよう明治42年美ヶ原牧場の牧夫となった入山辺村の市川増市と和田村の山田幸太は寒天小屋を牧場事務所として借りている。

市川増市は牧場の見まわりの休息や非常用に美ヶ原の台上で水場のある場所へ笹小屋を建てた。後に山本俊一氏に譲り、今の山本小屋となった。

昭和元年、入山辺村の飯浜幸一氏が三城に「三城小屋」を建て宿泊業を始めたのが観光施設のはじめと云うべきか。
私は、昭和21年から美ヶ原に登っている。県道松本和田線の大手橋や三反田のバス停を起点に歩いた。バスが丁度にないときは更に3kmほど手前の自宅から歩いた。
美ヶ原への車道が全くない時代で、高原の踏みあとは草に覆われていた。
無人の世界も放牧期には農耕馬が放たれ、牧夫が見まわっていた。
高原の構造物は王ヶ頭から200米ほど下った避難小屋と高原のはずれの山本小屋だけであった。牧柵は原の周囲にあり目立たなかった。
早世した牧夫の飯浜晴男さんはロマンチストでそのころ開いた八丁ダルミとダテノ河原を結ぶ登山道に「二人の小道」と命名したり、ウツクシ烏帽子下の原を「スズランテラス」と呼んだ。
そもそも、ウツクシ烏帽子やロッククライミングをした王ヶ頭直下の「大文字岩」は戦後登山者が仲間内で呼んだものが一般化したようである。
古代、深山幽谷は自然崇拝の対象であった。
今は里宮に祀る薄宮の奥社は薄川をさかのぼった扉峠への登り口にある。
美ヶ原の王ヶ頭や王ヶ鼻、中腹の水くみ、清竜権現には山岳信仰の御岳教が祀られている。

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