道に迷う
松本平から見る穂高連峰の手前に標高2700米クラスの前山が連なっている。そのひとつ大滝山(2615米)の麓に親友の家がある。彼は小学生時代から大滝山をホ−ムグランドにし、時には猟師の勢子になった。高校2年の春、大滝山を下山中に子づれの熊に出くわした。瞬間的に狩猟本能が燃え、熊の捕獲にとりかかった一行4人はザイルを投げ縄状に用意し、ピッケルを振りかざして捕獲の輪を縮めた。
子連れの親熊は気性が荒い。ザイルをかけるより早く一人に飛びかかり斜面を転げ落ちた。人間はピッケルで止まり、熊は谷底に消えた。二匹の子熊は連れ帰った
翌日、彼は校長室に呼ばれた。校長は無届登山をたしなめたが、無事を喜び、勇気を誉めた。
全国紙をはじめマスコミの騒ぎや山ほどの投書となったが、校長の態度が身にしみる教訓であった。
その翌年3月、彼をリ−ダ−にして大滝山に登った。帰途、鍋冠山の下りで近道をしようとして道に迷った。
3人のメンバ−とも度々登っている山でベテランの彼がリ−ダ−でも判断の誤りはある。 気づくのが早く横手に最短ル−トでコ−スに戻ったが、近道は往々にして遠い道になる。 |
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空 腹
腹がへって意識朦朧になったことがある。仲間がナップサックのキャラメルを思い出して、元気回復キャンプ地にたどり着いた
糖分の疲労回復の威力を知った苦い経験はこうである。上高地の小梨平にキャンプした仲間三人は山の法則で早朝に出発した。この日、岳沢から前穂高〜奥穂高と登り、穂高小屋から涸沢に下る一周コ−スを目指していた。昼食と予備食は前夜に飯盒で炊いてあった。雄大な景色に堪能し、昼食は水場のある涸沢めざしグリセ−ドで一気に下った。
さて6時間以上岩場を背負ってきた楽しみの飯は。腐敗していた。簡便な携行食などなかった時代の、忘れられない教訓である |
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美ヶ原で遭難
広大な台地の濃霧
古い話である。地元入山辺小学校の6年生が美ヶ原へ日帰りで団体登山した。高原での1日を楽しみ、下山にかかった午後は霧の発生しやすい時間帯である。地元出身で山に詳しい引率の先生も、濃霧で方向を違え反対側に下ってしまった。夜となり村は半鐘を鳴らし総動員となった間違いに気づいて熊笹や藪をかき分け引き返す途中、消防団員に救助された。先生の統率力、子供の体力と忍耐力で1人の落伍者もなかった。
濃霧で5メ−トル先の見えないことがある霧はたちまち発生し、消えるのも早い。晴れ間を待ち、登山道からそれないこと。 |
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雪原を彷徨
美ヶ原に警察の無線塔ができるまで、台上の構造物は東の端にある山本小屋だけであった。
今は美ヶ原のシンボルとなったうつくしの塔はこの事件後、避難施設として建てられた。
信州大学医学部の彼は友人とスキ−を担いで冬の美ヶ原に向かった。家からバス道路を3Kmさらに登山道を2Kmで石切場に着く。
ここから八丁ダルミ登山道3.2Km登れば美ヶ原の西端、王ヶ鼻である。夏なら家からここまで3時間で到着する。雪山のラッセルではどのくらいかかっただろうか目指す山本小屋まで4.5Km程は高低差の少ない平原である。
台上を半分ほど進んでスキ−を放棄した雪雲につつまれ、さ迷い、スキ−の重みに耐えられなくなったのである。そこから僅か進んで夏なら20分ほどで到着する山本小屋の近くで二人は倒れた。
今この辺は両側が牧柵の管理道路を歩くようになっている。霧の中でも、柵を外れなければ王ヶ頭ホテルか山本小屋にたどり着く。 |
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捜索隊余話
信州大学医学部生の捜索に参加した私の友人は、当時高校2年生であった。
その日の捜索を日没で打ち切り、王ヶ頭から300米程下った避難小屋に宿泊した小屋には薪スト−ブがあり背負ってきた炭を入れ暖をとった。6畳にも満たない部屋は暖かく、夕食をすませて昼の疲れで寝入っていた。何時間か経ち頭痛で目覚めた。薪スト−ブに煙突がなく、狭い小屋は酸欠状態となった。仲間を起し入り口の扉を開けようとしたが、ビクとも動かない。入るときかき分けた扉の前がブリザ−ドの吹き溜まりとなり閉ざされてしまった。皆で体当たりしてようやく僅かな隙間から脱出した。あわや二重遭難の出来事であった。 |
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