アウトドアの知識

山暮らしで大切な話


     化繊衣料の恐怖

化繊の衣料が火に弱いことはみんな知っている。焚き火をして、翌朝見たら穴だらけなんて話はざらにある。                   
最近、親友が焼死寸前の事故に遭った  
ぶどう栽培農家の彼が剪定作業中、一休みして焚き火で暖をとった。枯れ枝をのせ、火勢をあげたとき防寒の化繊衣料に燃えうつり炎に包まれた。                  
近くにいた者が衣類をはぎとって救われたが燃え出した化繊は熔けて付着し、二人とも火傷を負った。 
 
   ガソリンは爆発的に燃える
         
或る冬の日、刈り集めてあったボヤを燃やそうとした。適当な焚きつけがないのでチエンソ−の混合油を振りかけた。100円ライタ−を近づけたとたん、燃焼音と炎に襲われた。    
冬の気温と本能的に飛び退いたので助かった。                        
携行のホワイトガソリンは専用器具以外に絶対使用してはいけない。            
近所に類似の愚か者がいた。夜間出かけようとして買い置きのガソリンを車に入れていた
一杯になったか見ようとマッチを擦って車は炎上、大焼けどした。
     百円ライタ−爆発

空になった百円ライタ−を廃棄物で出すため潰していた。石の上に乗せたライタ−を金槌で叩いた途端、ライタ−は粉々になって飛び散った。 わずか残ったガスに石の火花が引火した。                      
     スプレ−のガス引火

郵便局勤務のころ、局舎新築祝いがあった季節は秋。新品のスト−ブを取り付け、内面にサビ止め耐熱スプレ−を吹き付けた。 乾燥の頃合い良しとマッチ点火。熱風で眉毛と髪の毛が焼け縮れた。        
     プロパンガスの惨事

燻製仲間の肉屋さんの話。私と同じ100gドラム缶で自作の燻製器をつかっている。職業柄頻繁に燻製をつくっているが、あるとき途中で火が消えた。チャッカマンを炊口に近づけた途端、火炎を噴きドラム缶は吹き飛んだ。顔半分に火傷が残っている。
           落雷  

山小屋に公衆電話を取り付けて1週間目近くの電柱に落雷があった。電話装置のパイロットランプが一瞬光って使用不能になった。 
NTTに修理依頼して原因の状況を説明した。天災は保証されないので修理代が20000円ほどかかると、気の毒げに説明してくれた。
しかし、結末は無料で新品取替えとなり「正直が馬鹿」をみなかった。NTTの大岡裁判に感謝した。                    
雷を避けるのに何処が安全か。        
答えは車の中、或いは家の中心部とのこと。
金属の車はシ−ルド状態で落雷があっても中に電流が通らない。家の中心部でも電灯の下は避けたほうがよい。           
大木には落雷するのを何回か見た。木の下に逃げ込むのは危険。             
近くの農家は畑作業中、雷雲がでると農具をそのままにして家に逃げ込む。原っぱも危険である。

              
         道に迷う

松本平から見る穂高連峰の手前に標高2700米クラスの前山が連なっている。そのひとつ大滝山(2615米)の麓に親友の家がある。彼は小学生時代から大滝山をホ−ムグランドにし、時には猟師の勢子になった。高校2年の春、大滝山を下山中に子づれの熊に出くわした。瞬間的に狩猟本能が燃え、熊の捕獲にとりかかった一行4人はザイルを投げ縄状に用意し、ピッケルを振りかざして捕獲の輪を縮めた。                        
子連れの親熊は気性が荒い。ザイルをかけるより早く一人に飛びかかり斜面を転げ落ちた。人間はピッケルで止まり、熊は谷底に消えた。二匹の子熊は連れ帰った      
翌日、彼は校長室に呼ばれた。校長は無届登山をたしなめたが、無事を喜び、勇気を誉めた。                       
全国紙をはじめマスコミの騒ぎや山ほどの投書となったが、校長の態度が身にしみる教訓であった。                      
その翌年3月、彼をリ−ダ−にして大滝山に登った。帰途、鍋冠山の下りで近道をしようとして道に迷った。            3人のメンバ−とも度々登っている山でベテランの彼がリ−ダ−でも判断の誤りはある。 気づくのが早く横手に最短ル−トでコ−スに戻ったが、近道は往々にして遠い道になる。
 
           
         空 

腹がへって意識朦朧になったことがある。仲間がナップサックのキャラメルを思い出して、元気回復キャンプ地にたどり着いた

糖分の疲労回復の威力を知った苦い経験はこうである。上高地の小梨平にキャンプした仲間三人は山の法則で早朝に出発した。この日、岳沢から前穂高〜奥穂高と登り、穂高小屋から涸沢に下る一周コ−スを目指していた。昼食と予備食は前夜に飯盒で炊いてあった。雄大な景色に堪能し、昼食は水場のある涸沢めざしグリセ−ドで一気に下った。                
さて6時間以上岩場を背負ってきた楽しみの飯は。腐敗していた。簡便な携行食などなかった時代の、忘れられない教訓である 
 
       美ヶ原で遭難
       広大な台地の濃霧
古い話である。地元入山辺小学校の6年生が美ヶ原へ日帰りで団体登山した。高原での1日を楽しみ、下山にかかった午後は霧の発生しやすい時間帯である。地元出身で山に詳しい引率の先生も、濃霧で方向を違え反対側に下ってしまった。夜となり村は半鐘を鳴らし総動員となった間違いに気づいて熊笹や藪をかき分け引き返す途中、消防団員に救助された。先生の統率力、子供の体力と忍耐力で1人の落伍者もなかった。 
濃霧で5メ−トル先の見えないことがある霧はたちまち発生し、消えるのも早い。晴れ間を待ち、登山道からそれないこと。

 
          
       雪原を彷徨

美ヶ原に警察の無線塔ができるまで、台上の構造物は東の端にある山本小屋だけであった。
今は美ヶ原のシンボルとなったうつくしの塔はこの事件後、避難施設として建てられた。  
信州大学医学部の彼は友人とスキ−を担いで冬の美ヶ原に向かった。家からバス道路を3Kmさらに登山道を2Kmで石切場に着く。   
ここから八丁ダルミ登山道3.2Km登れば美ヶ原の西端、王ヶ鼻である。夏なら家からここまで3時間で到着する。雪山のラッセルではどのくらいかかっただろうか目指す山本小屋まで4.5Km程は高低差の少ない平原である。  
台上を半分ほど進んでスキ−を放棄した雪雲につつまれ、さ迷い、スキ−の重みに耐えられなくなったのである。そこから僅か進んで夏なら20分ほどで到着する山本小屋の近くで二人は倒れた。                
今この辺は両側が牧柵の管理道路を歩くようになっている。霧の中でも、柵を外れなければ王ヶ頭ホテルか山本小屋にたどり着く。
   
  
       捜索隊余話
信州大学医学部生の捜索に参加した私の友人は、当時高校2年生であった。
その日の捜索を日没で打ち切り、王ヶ頭から300米程下った避難小屋に宿泊した小屋には薪スト−ブがあり背負ってきた炭を入れ暖をとった。6畳にも満たない部屋は暖かく、夕食をすませて昼の疲れで寝入っていた。何時間か経ち頭痛で目覚めた。薪スト−ブに煙突がなく、狭い小屋は酸欠状態となった。仲間を起し入り口の扉を開けようとしたが、ビクとも動かない。入るときかき分けた扉の前がブリザ−ドの吹き溜まりとなり閉ざされてしまった。皆で体当たりしてようやく僅かな隙間から脱出した。あわや二重遭難の出来事であった。
                        


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