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平凡な表現ですが年が経つのは早いものです。 日本を出てから33年を越える年月が経ってしまいました。 こうして記憶を辿ったときにいつも思うのは日本を出る前後の事を鮮明に昨日の事のように思い出す事です。 誰かから年を聞かれるとよく冗談で「19」と答えます、 私には日本を出た19歳以降の年月が圧縮されたような感覚があり33年前の記憶の方が10年前20年前の記憶よりはるかに鮮明です。 まあ脳も老化するから記憶も曖昧になる、と言う説明も可能ですが、やはりこの出来事は私の人生にとって一番大きな変化でした。 フランスに来たのは音楽を勉強するためですが、何故自分が音楽を選んだのか、から書き始めましょう。
きっかけは松本清水中学三年の時でした。 中学生時代は3年間バレーボールをやったのですが3年生の6月に予選で敗退、さて受験勉強でもしようか、と思っているときに「合唱部に男子がいないのでおまえら来い」と運動部の連中が15人ほど音楽の先生に招集されました。 なぜ当時音痴だという定評のあった私に白羽の矢が立ったのか今でもよくわかりません。 何はともあれ半強制的に合唱部に入れられ生まれて初めて混声三部合唱なるものをやらされました。 合唱部の指導者は横内先生という方、あちこちの中学校でコンクール入賞歴のある先生で素晴らしい指導者でした。 彼の御陰で音楽、アンサンブル、ハーモニーというものの素晴らしさを初めて味わい、その上毎日コンクールの東日本大会に出場し3位になります。 音楽とは何と素晴らしいものだろう、とこの時感じました。それまで何をやっても感じた事のない最高の幸福感でした。 今考えてみると楽譜の読めない男の子たちを3ヶ月ほどで鍛え上げコンクールまでもって行った横内先生の実力には頭が下がる思いです。 何よりも音楽に対して溢れるほどの情熱がありそれを生徒に伝えたくてたまらない、と言った感じの指導法であったと思います。 彼の御陰でしょうか? 53になった今でも私の音楽に対する情熱は全く衰えていません。
その後松本深志高校に入りました。 深志入学の当初私は音楽をやりたいと言う気持ちにもかかわらずどうしても音楽部の敷居を越えることができませんでした。 こんなことを今言うと笑われるかもしれませんが当時「音楽をやる男は女たらしだ」というような固定観念が男の子たちの間にあったからです。 高校一年の文化祭(トンボ祭)までは我慢をしていたのですが結局耐えきれなくなり秋に音楽部に入りまた合唱を始めました。 このときの決心は清水の舞台から飛び降りるほどのものだったのを覚えています。 改めて思春期の敏感さ、デリケートさを思い出します。
さて高校2年の春だったと思います。同じ音楽部に弦楽アンサンブルがあり、そこの一台空いていたチェロを何故か弾いて見る気になりました。 先輩に少し教えてもらい弾いているとまもなくモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の一楽章が弾けるようになりました。 この時期は学校に行くのはチェロのためで暇があればチェロを弾いていました。 とにかくチェロを弾くのが楽しくてたまらない毎日だったのを覚えています。 あげくの果てに子供の頃からためていた自分の貯金をはたいて鈴木のチェロを買ってしまいました。 さてWernerの教本や鈴木の教本を独学で勉強したもののやはり行き詰まりを感じ誰か先生につかなくては、と自宅の近くに住んでいた作曲家で合唱指揮者の館石唯夫先生を訪ねました。 今考えるとこのときが私の人生の分かれ道でした。 館石先生に「あなたは本気でチェロをやりたいのですか、それとも自分の楽しみのためですか」と聞かれたときに「先生こんなに遅く始めていったいできるものでしょうか」と聞き返したものです。館石先生は責任の重さを感じ東京の音大の先生に聞いてみると言う返事でした。 数日して館石先生から「チェロだったら今からでもできるかもしれないですよ」と言われたとき、それでは、と案外簡単に自分で決心してしまったのを覚えています。 ショックを受けたのは父親でした。私の将来については色々考えていたようですが音楽だけは予想もしていなかったようです。普段私は父親と話をするのが好きでよく夜寝る前に色々な事を話し合ったものですがこのときは1ヶ月ほど会話が途絶えました。 結局母が弁護してくれた事もあり父は折れて、それ以後全面的にバックアップしてくれました。
この時点から館石先生を通じて紹介して頂いた国立音大の教授で元N響主席奏者の大村卯七先生と勉強を始めます。 土曜日学校が終わると電車で東京に行きレッスンを受け日曜日に帰ってくるという生活が国立音大受験まで続きました。チェロを始めて一年半で何とか国立音大に入学。大村先生のお陰です。
大学一年の夏に軽井沢の講習会で東京芸大の講師で来日していたフランスのチェリスト、レーヌ・フラショーさんと勉強したのがきっかけでそれ以後二人の先生と勉強する事になります。大村先生が容認してくれたおかげですが当時の日本では珍しいケースであったと思います。 一年後にフラショー先生が帰仏する折りに彼女が「フランスに勉強に来ないか」と誘ってくれました。姉が熱心に薦めてくれた事もあり国立音大を中退して留学する事に決めました。 出発の日、大村先生が見送りに来てくれました。 今考えると当時自分は何かと大村先生を傷つけるような事をしていたのでは、と後悔の念が絶えません。いつも温厚な話し方で「君は熱心だから何とかなるよ」と言ってくれたのを覚えています。 当時70を越えてチェリスト、音楽家としての頂点をはるか昔に越えてしまった大村先生と50の脂ののりきった技術的にも音楽的にも体力的にも最高の時点にいたフラショー先生。 当時19の私はフラショー先生に強く惹かれ彼女と勉強を続けるためにフランス留学を決めた訳です。
当時フランスはフルニエ、ナヴァラ、トルトゥリエ、ジャンドロンを輩出した世界最高のチェロ王国で世界中の優秀なチェリストがフランスに勉強しに来ていました。 ただ自分は当時チェロを始めてわずか3年、今考えると少し無謀であったと言う感じもします。 まあ若さと全く認識不足の怖いもの知らずで、何の危惧もなくナヴァラやトルトゥリエとマスタークラスに行ったものです。
留学当初74年から75年までストラスブールに住みました。 学校はストラスブールのコンセルヴァトワールとバーゼルのアカデミー、チェロは77年までレーヌ・フラショーに師事。 75年からパリに住みバーゼルのアカデミーとパリのエコール・ノルマル・ドゥ・ミュージックに在籍しながら77年からチェロをフィリップ・ミュレー(現パリ音楽院教授)、79年からロジェー・アルバン(作曲家・指揮者・チェリスト〕に師事。 80年にエコール・ノルマルのディプロマを獲得。
フランスに来てから一番のショックは価値観の違いでした。文化の違いというものはそれなりに予想していましたし若さもあってそれなりに問題なく受け入れましたが、価値観の違いを消化するのには時間がかかりました。 一つの具体的な話が練習の仕方です。 「とにかく頑張って練習さえしていればそのうち何かが開けてくる」と言うような日本的精神論から「結果がでなければ何をしてもしょうがない、時間の無駄である」「結果を出すには分析能力と論理的な方法を構築する能力が必要」とするフランス的実際論。 日本的な方法論がそれのみだったとは言いませんが私の頭に当時あったのはこの精神論でした。 音楽は情緒的なものだと思っていたのに「頭を使って理性的に勉強しろ」と何度も言われました。
仕事と家庭の関係も全く価値観が違います。 フランス人はこの二つを全く分けて考え、仕事が私生活のじゃまをするのを極端に嫌います。仕事のあとに上役と飲みに行くなどと言う事は非常にまれでしょう。
知識があるかないかは重要でなく、論理性が重んじられます。
色々な事を理解するのに時間がかかり、やっと音楽を創るための具体的なメソードがわかり始めたのはフランスに来て3.4年くらいたってからでしょうか。室内楽を真剣にやったおかげとロジェー・アルバンの御陰だと思っています。 今考えると単純でごくあたり前な事を認識するに時間がかかりました。
この時期の最高の思い出は室内楽を往年の名ヴァイオリニスト、ジョセフ・カルヴェと勉強した事です。 日本人三人でトリオを組んでラヴェルのトリオを彼と勉強するためにアヌシーのマスタークラスに行った時の話です。 最初に言われたのが「あなた達の弾き方は葬送行進曲だよ。全く音楽が死んでいる」と言うきつい言葉。 「フランス音楽には常に生命感がなくてはならない。命だよ」と繰り返して言われたのを覚えています。 またどんな細部も聞き取ってしまう耳、フランス的な音を出すための具体的な助言、まさにカルチャーショックでした。
それでも我々がコンサートで弾く直前に彼が立ち上がって 「この東京から来た3人の日本人は(これは嘘です3人ともフランスに住んでいました)驚くべき規律と熱心さでわずか10日間の間に目覚ましい進歩を遂げた。これはその結果である」 と演説してくれました。 多分最初に彼の前で弾いたときが余程ひどかったのでしょう。 こういう事を弾く前に言われて我々非常に緊張しましたがそれなりに満足する演奏ができたのを覚えています。
81年にシャルトルの近くの音楽学校で教え始めましたが同年秋クレールモン・フェランのオーヴェルニュ室内オーケストラの試験に受かり初めて本格的な職業音楽家としての人生を歩み始めました。 この試験に受かったのはロジェー・アルバンの御陰です。
アルバンは音楽家(作曲家、指揮者、チェリスト)として非常に広い教養を持った人で私に楽譜の読み方(ソルフェージュという意味ではなく楽譜の奥に書かれた作曲家の意図を読みとる方法)、音楽の創りかたを非常に丁寧に教えてくれました。 私のついた先生は色々なタイプがいましたが彼はレッスン(毎回2時間はありました)のあとに生徒に希望を持たせてくれるようなタイプだったのを覚えています。
86年名ヴァイオリニストのジャン・ジャック・カントロフが常任指揮者に就任してからうちのオーケストラは急にあちらこちらに演奏旅行をするようになります。 彼の顔でCD録音もデンオンをはじめ色々なレーベルと行いました。 彼がやった事で今でも感謝しているのが室内楽の定期演奏会をつくった事です。 カントロフ自身も客演のソリストも全ての団員と共演すると言うのが主旨で、御陰で私もパスキエ兄弟、ジャン・クロード・ペンティエ、ウラディミール・メンデルスゾーンそして勿論カントロフとも室内楽で共演する機会が持てました。 当時うちのオーケストラは平均年齢が大体30歳くらい、カントロフは40代前半のバリバリ、丁度我々の兄貴分と言った感じでオケをぐいぐい引っ張っていってくれました。 演奏旅行が多すぎてきつい時期もありましたが旅行先で羽目を外して騒いだり、楽しい思い出も沢山あります。 カントロフという人はとても人なつこい性格で、オーケストラの旅行の時も自分のジャガーよりも皆と一緒にバスで旅行するのを好む、と言ったタイプの人です。 一度旅行中にストレスや疲れが原因で私と喧嘩っぽくなったことがありますが、あとで彼の方から仲直りしよう、と言ってきて「コパン パフタージュ ル パン」(友達はパンを分け合う、と言う意味のフランス語の言い回し)と言いながらパンを分け合って一緒に飲みました。 多分彼の御陰でしょう、うちのオーケストラには仕事の厳しさの中にもうちとけてリラックスした良い雰囲気が定着しました。 ソリストという職業は孤独だ、と良く聞きますがすでに彼は20年近くソリストとして世界中を駆け回り、当時何か精神的な癒し場を求めていたのではないか、と今思っています。 いわば家庭ですが、うちのオーケストラは20人強の編成で、また弦だけ。まさに家庭的な雰囲気が常に存在しています。
指揮者の話のついでに現在オーヴェルニュ室内オーケストラの常任指揮者のアリ・ヴァン・ベークについて一言。 彼はオランダ人でラテン的な性格のカントロフと全く正反対な性格の人間です。 仕事の時はお世辞というものを全く言いません。自分が不満な時、または納得しないときはすぐ顔に出ます。 音楽的には素晴らしい様式感、しっかりした構築感、時には意外な即興性を持った指揮者です。 彼の御陰でうちのオーケストラはカントロフ時代よりも一段進歩したと思います。 私自身も数多くの事を彼から勉強しました。
88年でした。ぼちぼち仕事にも慣れ、それと同時に同じレパートリーを繰り返して弾くのに倦怠感がでてきた頃です。 このままマンネリ化した人生を送るのも良くないと思いオケの同僚とクァルテット(弦楽四重奏団)をつくりました。理由はそればかりではありません。クァルテットをやる事は私の若い頃からの夢であったからです。 忙しいオーケストラの仕事と平行してクァルテットのコンサートを年に10回から15回こなし、2004年、私が腱鞘炎を理由にやめるまで続きました。
何よりもクァルテットで難しいのは人間関係です。 それを書く前にクァルテットの二つのタイプについて書きましょう。 一つは四人のうちの一人が抜き出て素晴らしいかその人間にリーダーシップがある場合。 この場合は大体の場合リーダーがその頭の中にある音楽を他の三人に要求し、三人は陰でぶつくさ文句を言いながらも親分に従う、と言ったタイプ。 もう一つは民主的タイプ。 四人の力が均衡している場合は四人が平等に意見を言い合いながら音楽を創っていく訳です。 一見理想的なのですが一番喧嘩しやすいのがこのタイプ。 私のクァルテットはこの二つ目のタイプで絶えず話し方、練習の仕方には気を付けたものです。 しかしそれぞれの人間が情熱を持って真剣になればなるほどぶつかる危険性は大きくなります。 ある意味ではクールでストイックな人間が一人二人いるとむしろうまく行くものです。 100%自分の言いたい事を言わずに、折れても良いところ折れ、自分が大切だと思う所のみ頑張る、と言うような政治的能力もとても重要になってきます。 肉を切らせて骨を切る、ですか。日本語には良い表現がありますね。
私たちオーケストラのミュージッシャンがこのような活動をする理由は自分の創造の場をつくるためです。 指揮者の言う事を聞いて指揮者の頭の中にある音楽を創造するときの一つのエレメントとして働くのが我々のオーケストラの仕事ですが、これのみでは総括的に演奏というものを創る能力は養えません。16年間のクァルテット活動は私たちに演奏を構築する上に必要なノウハウというものを勉強させてくれると同時に自分たちの創造的欲求の発散の場ともなりました。 まあ悪く言えば自己満足ですが、我々の自己満足的演奏とお客さんにある種の感動を与える演奏との間には時には紙一重の違いしかありません。 このへんが再現芸術の難しいところです。どんなに練習の段階で万全を期しても、その演奏家の実力以外に、演奏をする場所にも、聴衆にも、その日の体調にも影響されます。 これはオーケストラの場合もクァルテットの場合も同じですが、自分としては良いときの感触を忘れずに、またそれを再現しようと努力してきたつもりです。
この自己満足型クァルテットは時には世の中の為になる仕事(?)もやりました。 有名なイゴール・ストラヴィンスキーの息子、スリマ・ストラヴィンスキーの三つの弦楽四重奏曲のフランス初演とCD録音はその一つだと思っています。 アメリカのフロリダに在住していたこの作曲家は夏になると毎年オーヴェルニュの小さい山奥の村の奥さんの実家で夏休みを過ごしていました。 90年代のはじめ、彼の3曲のフランス初演をした折りにこの作曲家に喜んで頂き、その後録音の話に発展したわけです。 ただ予算を見つけるのに時間がかかり、結局録音が実現したのは彼が亡くなって5年たった99年でした。 我々が生きている時代の作曲家の作品を演奏すると言う事は非常に重要な事です。 ただお客さんや主催者が拒否反応を示す事も多いので、現代曲を弾く場合でもクラシックとロマンティックの間に入れるという形でプログラムを作りました。 わずかな量ですと曲が良ければそれなりにポジティフな反応も多くなります。
若い頃は教えると言う事に全く興味を持ちませんでしたが、99年から近くの音楽学校でチェロを教え始めました。だんだん年を取るに従って自分の知っている事を若い人やアマチュアに伝えたい、と言う欲求がでてきたからです。 反対に言えば若い頃は自分に人を教えるだけの何かがあると感じる事がなく、時々教える事があっても自分に取って自然な行為ではありませんでした。 99年に友達がある音楽学校のディレクターになって「チェロを教えないか」と聞いてきたときに「教える仕事もおもしろいかも」とすぐ考えたのは自分が変わってきた証拠でしょう。
2005年からその音楽学校の弦楽オーケストラの指揮も始めました。 私の若い頃は誰にもオーケストラの弾き方というものを教わった事がなく、結局自分で仕事をしながら覚えたものです。やはりそれなりに苦労しました。 弦楽器にはオーケストラやアンサンブル独特のテクニックというものがあり、そのためにどの音楽学校にもオーケストラの授業というものがありますが、私は運が悪かったのか学校のオーケストラで良い指導者に当たった事がありません。 このへんはフランスの教育の欠陥だと思っています。ドイツとかイギリスの方がこの方面の教育は優れているようです。 つまり私は生徒にアンサンブルのテクニック、音楽のつくり方、を教えたくてこの仕事を始めました。 幸い年々生徒の数も増え、皆やる気満々で私にとってとても生き甲斐を感じられる仕事となりました。若い頃には考えもしなかった事です。 人生には何が待ち受けているかわからないとつくづく感じている現在です。
演奏家の体の使い方というものは同じ筋肉、関節、腱などを酷使すると言う点においてプロのスポーツ選手と同じだそうです。6年前ですがオーケストラ、クァルテット、教える仕事と3つの仕事をしていた頃無理がたたって腱鞘炎にかかりました。 今考えると仕事のやりすぎで一日9時間くらいチェロを弾いていましたから当然の事です。 完全に治るのに結局3年以上かかりました。それがクァルテットをやめる事にした理由です。 私の同僚のチェリストも今右肩の痛みで苦しんでいます。もう二十歳でないのだからお互いに自重しなければ、と言い合っているところです。少し寂しい話ですがこれが現実です。 まあこれからはあまり無理をせず自分と自分の周りの人間が幸せになれるような仕事をしていきたいと考えています。
最後に時代が戻りますが74年にパリに着いた頃の話です。 ナヴァラのマスタークラスに9月のはじめに行ったあとストラスブールに住み始めるまでの間、約3週間ほど私はパリのホテルを転々としていました。 転々とした理由はチェロです。バーゼルの入学試験を前にしてチェロをさらわねばならない時期だったのですが、ホテルでさらっていると他の客から文句が出て追い出される、と言う事の繰り返しでした。 ある日、以前泊まった事のあるホテルに行って部屋があるかと聞くと、「ないですね。またあなたのように楽器を弾く人は部屋を見つけるのが難しいですよ」という返事。がっかりしてそこを出ようとすると「ちょっと待ってください、あなた宛に手紙が来てますよ」と一通の手紙を渡してくれました。 差出人は深志時代の音楽部の友達。 文面は「慣れない国で辛い事も多いと思うが頑張ってくれ」という内容のもの。 他のシチュエーションであったならばありがたいと思いながらも読み流していたと思いますが、この時はどうしようもなく涙が出ました。 この友人は次の年にフランスまで遊びに来てくれたり、機会あるごとに色々気遣ってくれるなど常に精神的なサポートをしてくれました。
友達とは尊いものです。彼をはじめ深志時代の友人のバックアップはいくつかの仕事を成功されるためにも役に立ちました。 心から自分を支えてくれた友人達に感謝の意を表してこの長話しを終える事にします。 |