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雛の歴史と郷土松本の押し絵雛

【弊社先代社長 故猿田登美司 昭和五十七年「信州往来」第八巻第三号寄稿原稿より】

松本附近に於ける雛祭のお話を致します前に、一応、国史をひもといてその沿革を調べてみましょう。
 雛の事を昔は「ひひな(ヒイナ)」と申しまして、紙で作りました人形の玩具の事をいい、既に今から約千年位前の「釈記私記(シャクキシキ)」という本にその記録がございます。平安時代の代表文学作品であります「宇津保物語」や、「枕草子」にもひな遊びのことは出ています。更に「源氏物語」には三ケ処ほど出ています。しかし、この頃は今のように三月三日を中心として雛祭を行うのではなく、時を定めないで遊んだものでした。
 唐の年中行事が日本へ伝来しまして、平安時代に日本化したのでございますが、雛祭と桃の節句とは、未だ結びついてはいませんでした。元来、中国では「武陵桃源郷」などといい桃はお芽出度い植物とされ、更に悪魔を払う力があるとされていました。必然的に季節のお祭りであるお節供(せっく)と関係がついたものと考えられます。清少納言は「枕草子」で”三月三日(ヤヨヒミカ)、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲はじむる。柳など。いとをかしきこそ更なれ”と云い、更に“三月三日(ヤヨヒミカ)はいとうらゝかなる”と節供の事を美しい筆に託してのべています。この平安時代の三月三日の節供は現今のような雛祭・即ち人形のお祭りではなくて「曲水」とか「鶏合(トリアワセ)」といった賭のような遊戯が上流人の間に行われていたのです。
 これが現在のような庶民的な雛祭になるのには室町時代まで待たねばなりませんでした。即ち室町時代には、三月の上旬の巳の日を中心として夫婦の雛を飾り、桃酒(モモザケ)、母子餅(ハハコモチ)を作って供養、奉仕したものです。これを、一般に雛祭といったようです。庶民的な傾向をもつこの時代に、三月の節供が現在のようなスタイルの雛祭の祖先の型にでき上がりつつあったことは仲々面白いことです。この頃、既に人形(ヒトガタ)、即ち“にんぎょう”の贈答が行われていたようです。
 安土、桃山時代にも「雛会(ヒナエ)」は行われ、下って江戸時代には雛祭は愈々盛んになりました。
 将軍綱吉の頃から三月三日が定例となり、雛の種類としては、「寛永雛」。元禄には「次郎左衛門雛」…これは顔の円形、口を朱点する。「享保雛」…これは顔細長く衣服に金襴、姫に裾綿が多い…があり、享和頃より雲上に擬して「内裏雛」が作られ、女官、伶人、白丁、武官、稚児、桜、橘を付属させるようになりました。
 飾り方は、始めは、毛氈の上に雛、他に膳、行器、絵櫃、駕籠、蛤雀を置きましたが、享保頃より二・三段の上に祭り、台所道具、家具、市松人形、蛤雀を置くことになり、内裏雛に化粧道具を加え、雪洞を点して祭ることになりました。地方には、土や紙裂で作ったローカル色豊かな人形が出来ました。我が松本地方に発達した押絵雛などもこの一つです。
 以上で雛祭の概略は申し上げましたので、これから松本附近のお話に移ります。松本が、商工業都市として出発致しましたのは、今から約三百七十年位前、即ち、天正年間、小笠原貞慶が領主となった時に、大いに市街経営の計画を立てた時に始まります。勿論それ以前にも国司の任地として相当に栄えてはいましたが、それが都市計画により愈々本格化したわけです。本町、伊勢町はこの頃より町並みを整えました。
 小笠原氏については戸田康長が徳川幕府初代の松本城主となりました。彼は徳川家康の同母妹の松姫を妻としましたので、割合に幅がきいていました。江戸の文化も信州の山の中の松本へどしどし流れ込んだものと思われます。現在、松本城の北にこの松姫他四柱を祀った松本神社があり、その宝庫には松姫の愛した人形が沢山あることが先年発見されました。恐らく信州では一番古い人形でありましょう。
 さて江戸時代中頃には、松本の商工街はそれぞれ町によって特徴のある様子をしていたようです。例えば本町は問屋筋、仲町は呉服、博労町は馬市といった風に、同業者が集まって、どこの町は何といった具合です。当時、生安寺小路は既に豆腐と雛店、即ちおひな様の生産や問屋として知られていました。
 善光寺名所図絵にもありますように、当国第一の都会といわれていました。桃の節句の頃、伊勢町、本町から生安寺小路あたりのにぎやかさはさぞかしと思われます。
 明治になって、廃仏といってお寺を毀したりする反動思想も仲々強く、一方、文明開化の風潮は滔々として一世を覆って参りました。しかし、この優雅な雛祭の行事は衰えるどころか益々盛んになりました。これは交通が便利になったことや、染織の技術が発達したためでございましょう。
 明治年間を通じて非常に盛んであったのは松本の押絵雛です。一時は町でも農村でも旧三月の節句には、この平面的な押絵雛でもって、その雛壇を飾ったものです。尤も、旧来の立体的な内裏、金時なども共に陳列されましたが、大半はこの押絵雛でその場を占領していた有様でした。明治二十年より三十年頃が其の全盛時代で、松本の一大特産であると名声を博していました。そして松本では高砂町に限られ、旧暦の二月二十日頃より始まり、三月二日頃に終わりました。新暦となってからは三月二十日ころより四月二日迄でした。
 その期間はその町の下駄屋も、すし屋もみな一斉に雛屋に変り、月末ころは田舎の買客と見物人とにて、押すな押すなの盛況で、大変な雑踏を呈したものです。雛本によりますと雛商の元祖は角佐原で、次が鍋林、その次が塩田屋でした。塩田屋の開業が天保五年頃だと申しますから、角佐原の開業は多分、文化、文政の頃でございましょう。鍋林、塩田屋はこの事業の開拓に相当努力致しまして、その為に両家を中心として同業者が増加して、松本雛という名声が広がったようです。尤もこのころは関西方面から仕入れたもので、松本では宮村町附近にてわずかながら制作されていました。そうして、その品種は絹着雛、張子雛で、現在でも農村の旧家に行けばよく見ることができます。

 押絵雛は松本の特産で、その起源は天保年間に始まったようです。即ち宮村附近で従来の形式の雛を作っていた雛造り職人が押絵雛を作って、市場に並べたものと思われます。しかし維新前は一般人の生計に余裕がなく、雛の売れ行きは今日とは比較にもならなかったようです。
 松本附近で養蚕が盛んになり、文化的水準が向上し、初めて活発な需要が起こったものと思います。一方廃藩後の士族の内職としてこの雛作りが重要視され、木沢政よしの如きは自ら士族の家を訪問して、その製作をすすめました。
 明治十五年頃より製造も分業となり顔描き、顔張、胴張、下絵描き、心拵え、台造りといった具合に専門的に分かれるようになりました。この地方だけでなく、他府県へも移出する位になり年産五万円位となりました。諏訪方面でも松本に習って製作を始めたところもあります。
 しかし押絵雛は平面的で、一方からのみ眺めるもので、他の立体的な四方から眺められる雛に比較しますと品格が著しく劣っていました。ただ価格が安いので一般的にうけたものと思われます。明治三十年頃より、一般の趣味が向上し、且つ押絵雛が粗製乱造されましたため、この押絵雛も漸く生産が減って来まして、大正以後は現代的な雛と代わって来たのです。

 【付記】現在松本押絵雛は著者猿田登美司の義妹三村夫婦(ベラミ人形店)によって復元製作されています。

 

 

 

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