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                  中医学・気の理論
中国の最も古い医学書(約2200年前)とされているものに、『黄帝内経』という書物がある。
その古典的な『黄帝内経』は、『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』、『黄帝内経太素』、『黄帝内経明堂』などがある。
『黄帝内経』の原型図である『内経図』と『修眞図』が幸運にも対で、天佑の如く授かり、当院秘蔵になっている。この背丈ほどの拓本からは、悠久の時を超え、今だ衰えぬ強い気のエネルギーが満ち溢れている。

 (原版は中国文化大革命の時に破壊され現存しない)

七情傷気
【原文】百病生於気也。怒則気上、喜則気緩。悲則気消、恐則気下。寒則気収、炅則気泄。驚則気乱、労則気耗、思則気結。九気不同、何病之生。岐伯曰、怒則気逆、甚則嘔血及飧泄、故気上矣。喜則気和志達、栄衛通利、故気緩矣。悲則心系急、肺布葉拳。而上焦不通、栄衛不散。熱気在中、故気消矣。恐則精却、却則上焦閉。閉則気還。還則下焦腸、故気不行矣。寒則腠理閉、気不行、故気収矣。炅則腠理開、栄衛通。汗大泄。驚則心無所倚、神無所帰。慮無所定。故気乱矣。労則喘息汗出。外内皆越、故気耗矣。思則心有所存、神有所帰。正気留而不行、故気結矣。(『素問』「拳痛論」)

「百病は気から生じる、怒れば気は上昇し、喜べば気は弛緩する。悲しめば気は消失し、恐れれば気は下降する。寒くなれば気は収斂し、熱くなれば気はもれる。おどろけば気は乱れ、疲労すれば気は消耗し、思考すると気はこりかたまる。
九つの気は異なっているが、どのような病が生じるのか」。岐伯が答えた「怒れば気は逆上し、ひどい場合には血を吐き、下痢をするので、気が上昇してしまう。
喜べば気は調和し、意志ものびやかとなって、営衛の気が通じるため、気がゆるむのである。悲しめば心臓の大血管がひきつり、肺はおしひろげられて、肺葉があがる。
すると上焦の気はつうじなくなり、営衛の気は分散しなくなる。熱気が内にとどまるために、気は消失する。恐れれば精気は衰退し、衰退すれば上焦は閉じる。閉じれば気が下へとかえる。下にかえれば、下焦が腫れしまうので、気がめぐらなくなる。

寒くなれば毛穴が閉じ、気がめぐらなくなるので収斂する。熱くなれば毛穴が開き、営衛の気は通じる。たくさん汗が出るため、気がもれ出るのである。おどろけば心はよるべなく、精神も変えるところを失ってしまう。思慮もおちつきを失う。

そこで気は乱れるのである。疲労すれば喘息がおこり、汗が出てゆく。内からは〔喘息が〕、外へは〔汗が〕通常以上に抜け出るために、気が消散することになるのである。思考すれば心を安定し、精神は帰るところができる。正気はとどまって移動しなくなるので気が結ばれるのである。

【解説】
喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情とは、人体が外の環境に反応した精神活動である。もしも感情がはげしく波立ち、長いこと持続したり、刺激がくりかえされるなら、生体の生理機能に影響して発病しやすくなる。このことを「七情が気をそこなう」という。

 異なった感情の変化は、内臓に対してさまざまな影響をあたえる。怒れば肝をそこない、過度な喜びは心をそこない、恐れは腎をそこなう。感情の変化は内臓にまで損害をあたえるが、まず最初に、気のメカニズムとしての昇降を狂わせるのである。怒れば気は上昇し、喜べば気はゆるむ。悲しめば気は消耗し、恐れれば気は下降する。
おどろけば気は乱れ、思考すれば気は結ばれて、これがつづけば血気が調和しなくなり、陰陽は調和を失い、臓腑の機能は乱れて、さまざまの異なった病変をひきおこすのである。

反対に臓腑の病変は、各種感情の異変としてあらわれる。例えば、肝の陽気がもっぱらさかんであると、いらいらと怒りやすくなる。血気が不足すればつねにびくついて、臆病となる。痰火〔痰と火邪とがあわさったもの〕が心を乱せば、喜びで笑がとまらなくなり、心気がおとろえれば、情緒不安定となる。
そのため『霊枢』「本神」においては、「肝気が虚になれば恐れ、実すれば怒る」「心気が虚になれば悲しみ、実すれば笑いがとまらなくなる」と述べている。五臓の安定を得て感情ははじめて正常さをとりもどすのである。



真気
【原文】真気者、所受於天、与穀気□而充身也。(『霊枢』「刺節真邪論」)
真気とは、天下から受けるもので、穀気と一緒になって身体を充足させているものである。

【原文】真気者、経気也。経気太虚、故曰其来不可逢、此之謂也。故曰候邪不審、大気己過写之、則真気脱、脱則不復、邪気復至、而病益蓄。故曰其往不可追、此之謂也。(『素問』「離合真邪論」)

真気とは経気である。経気がまったくからっぽになっている時、邪気が入ってきても、それに対応して〔瀉して〕はならない。したがって、邪気をうかがうことにくわしくないと、邪気がすぎさっているのに瀉してしまって真気がぬけてしまい、真気がぬけてしまえばもはやもどってこず、邪気がさらに至り、病がますますたまってしまう。だから、真気が去ってしまうと追うことができないというのはこのことである。

【原文】虚邪賊風、避之有時。恬幨虚無、真気従之、精神内守、病安従来。(『素問』「上古天真論」)

邪気や賊風は、これを避けるのにタイミングがある。心を静かに、虚しくしておれば、真気はこえに従順となり、精神が内に安定すれば、病気にならないのである。

【原文】凡此八虚者、皆機関之室、真気之所過血絡之所游。(『霊枢』「邪客」)

この八虚〔人体の八か所のくぼみ〕はすべて、大きな関節であって、真気の通過するところであり、血絡の通っているところである。

【原文】正風者、其中人也浅、合而自去。其気来柔弱、不能勝真気、故自去。・・・・・・陰勝者則為寒、寒則真気去、去則虚、虚則寒。・・・・・・
虚邪徧容於身半、其入深、内居営衛。営衛稍衰、則真気去、邪気独留、発為偏枯。(『霊枢』「刺節真邪」)

 正風は、人にあたることが浅くて、真気とあわさると、自然に去ってしまう。その気のあたりかたが弱く、真気に勝てないために自然に去ってしまうのである。・・・・・・
 陰気がすぎると寒になり、寒になると真気は去ってしまい、去ってしまうと虚になり、虚になるために寒になるのである。・・・・・・

【原文】虚邪が半身にあり深く侵入すると、体内にある営と衛の気がとどまる。営衛の気がしだいにおとろえると、それで真気が去り邪気だけが残って半身不随になるのである。

【原文】真気上逆、故口苦舌乾、臥不得正偃。正偃則咳出清水也。(『素問』「評熱病論」)

真気が上に逆行すると口がにがく舌がかわき、正しくうつぶせになることができない。正しくうつぶせになると、むせて清んだ液をはいてしまう。

【原文】此内不在蔵、而外未発於皮、独居分肉之間、真気不能周。故命曰周痺。(『霊枢』「周痺」)

 此れは〔邪気が〕内臓におらず、皮膚から出てしまうこともなく、ただ肉の間にいすわってしまうので、真気がめぐることができなくなる。だから周痺となづけるのである。

【原文】誅罰無過、命曰大惑。反乱大経、真不可復。用実為虚、以邪為真、用鍼無義、反為気賊、奪人正気。以従為逆、栄衛散乱、真気己失、邪独内著、絶人長命、予人天殃。不知三部九候、故不能久長。(『素問』「離合真邪論」)

邪気が過剰でないのに誅罰することを大惑という。というのはこれではかえって経気を乱し、真気はもどってこないからである。実〔の方法〕をもちいるのに虚をもちい、邪気を真気とまちがえ、鍼をもちいるのに道理がなければ、かえって気をそこない正気を奪ってしまう。

したがうべきところを、さからってしまうと、〔かえって〕営と衛の気が乱れ、真気は失われてしまい、邪気のみが体内に残り、人の長命を絶ち、人を早死にさせてしまう。三部九候〔人体の脈を三つの部分に分け、そのそれぞれの部分をまた三つに分けたもの〕を知らないなめに、人を長生きさせることができないのである。

【原文】按摩勿釈、出鍼視之、曰我将深之。適人必革、精気自伏、邪気散乱、無所休息、気泄腠理、真気乃相得。(『素問』「調経論」)

按摩するのに手をゆるめることなく、鍼を取り出してこれを見て、私はこれを深く刺そうという。うまく刺せば精気はもどり、邪気は散乱して、やむところなく毛穴から出ていき、真気が安定を得るのである。

【原文】写欲端以正、補必閉膚、輔鍼導気、邪得淫泆、真気得居。(『霊枢』「邪客」)

瀉〔の施療〕のときは、鍼の先端を正しい位置に置き、補のときには、皮膚をつまみ鍼が気を導くのをたすければ、邪気は乱れくずれ、真気は安定する。

【原文】補必用方。外引其皮、令当其門、左引其枢、右推其膚、微旋而徐推之。必端以正、安以静、堅心無解、欲微以留。気下而疾出之、推其皮、蓋其外門、真気乃存。(『霊枢』「官能」)

補するにはかならずその方を用いる。外側では皮をひっぱって鍼の穴にあてて、左手で其の中心をひき、右手で皮膚をおし、少しずつまわしながら徐々におしすすめる。先端をかならずただしくしておき、安定させて静かにし、心をしっかりとして、そっと鍼をとめる。気がくだったならばすかさずぬきとり、皮膚をおさえて穴をふさげば、真気は保存される。

【解説】
 真気は生命活動の物質的基礎であり、またそのはたらきの総称であって、肉体のもつ気を概括したものである。真気と人気と正気は、その意義がたいがいに接近している。
人気は、天気と地気にたいしてのいい方であり、正気は邪気に対してのいい方である。「気が合すると形が成立する。変化によって名を正しくする」のである。だから真気が人体に分布している部分や、功能・作用およびその起源の違いによって、それらの名称は異なっているのである。だから、張景岳は次のように説いている。

「真気とは元気のことである。・・・・・・まだ生れる以前にあつまったものを、先天の気といい、生れた後になるものを後天の気という。気が〔体の〕の陽の領域にあるものを陽気といい、陰にあるのを陰気という。〔体の〕表面にあるのを衛気といい、内にあるのを営気という。脾にあるものは充気といい、胃にあるものは胃気という。上焦にあるものを宗気といい、中焦にあるものを中気といい、下焦にあるものを元陰元陽の気という。すべてはその別称なのである」と。

真気は生命とともに〔肉体に〕来入し、肉体の中に在存し、常に吸入する清気と水穀の精気によって補充されている。それは、絡脈の中を循環し、五臓六腑・手足・骨々をあたため養い、外邪の侵入を防ぎ、精を生じ血を変化させ、人体の新陳代謝源となっている。だから、真気が充足すれば、精神は充実して血気刃調和し、身体は健康になる。
しかし、真気が消耗すると、精神はなえて血気は乱れ、身体は衰弱する。だから、疾病の予防には、真気を保存することが重要であり、疾病の治療には、真気を回復することが重要なのである。中国独特の「気功」の術は、特殊な方法を用いて真気を導引して、体質を増強し、疾病予防の目的を達成するものである。


■正気
【原文】
神者、正気也。客者、邪気也。在門者、邪循正気之所出入也。(『霊枢』「小鍼解」)

神とは、正気である。客とは、邪気である。在門とは、邪気が正気の出入するところをめぐっていることである。

【原文】正気者、正風也、従一方来。非実風、又非虚風也。邪気者、虚風之賊傷人也。其中人也深、不能自去。正風者、其中人也浅、合而自去。其気来柔弱、不能勝真気、故自去。(『霊枢』「刺怖節真邪」)

また虚風でもない。邪気とは、虚風が傷つけることである。人に侵入することが深いと、なかなか去っていかない。正風は、人に侵入することが浅いので真気と合わさると自然に去ってしまう。その気が侵入してきても弱いので、真気には勝てず、自然に去ってしまうのである。

【原文】余聞、五疫之至、皆相染易、無問大小、病状相似、不施救療。如何可得不相移易者。岐伯曰、不相染者、正気存内、邪不可干、避其毒気。(『素問』「刺法論」)

「私はつぎのように聞いている。五つの疫病が至ると、みな伝染し、病状は大小を問わず似ており、治療をほどこせない、と。どうすれば疫病に伝染せずにすむだろうか」。岐伯が答える、「伝染しないためには、正気が体内にあり、邪気がおかすことができず、その毒気を避けることである」

【原文】刺不知四時之経、病之所生、以従為逆、正気内乱、与精相薄。必審九候、正気不乱、精気不転。(『素問』「四時刺逆従論」)

四季の経脈〔血気のあるところ〕や病気の生ずるところを知らずに刺法をおこない、したがうべきところをさからってしまうと〔かえって逆効果となり〕、正気は内で乱れ、精気とせめぎあうことになる。九候につまびらかになってから刺法をおこなえば、正気は乱れず、精気も逆にめぐらない。

【原文】誅罰無過、命曰大惑。反乱大経、真不可復。用実為虚、以邪為真、用鍼無義、反為気賊、奪人正気。以従為逆、栄衛散乱、真気己失、邪独内著、絶人長命、予人天殃。不知三部九候、故不能久長。(『素問』「離合真邪論」)

 邪気が過剰でないのに誅罰することを大惑という。というのはこれではかえって経気を乱し、真気はもどってこないからである。実〔の方法〕をもちいるのに虚をもちい、邪気を真気とまちがえ、鍼をもちいるのに道理がなければ、かえって気をそこない正気を奪ってしまう。

したがうべきところを、さからってしまうと、〔かえって〕営と衛の気が乱れ、真気は失われてしまい、邪気のみが体内に残り、人の長命を絶ち、人を早死にさせてしまう。三部九候〔人体の脈を三つの部分に分け、そのそれぞれの部分をまた三つに分けたもの〕を知らないために、人を長生きさせることができないのである。

【原文】開鬼門、潔浄府、精以時服、五陽己布、疎滌五蔵。故精自生、形自盛、骨肉相保、巨気乃平。(『素問』「湯液醪醴論」)

汗の出る穴を開き、膀胱から尿をくだせば、精気は次第に集まり、五臓の陽気も広くゆきわたり、五臓を洗いそそぐ。そのため、精気が自然と生じ、体も自然と盛んになり、骨や肉も保たれ、巨気〔大径脈の気〕も安定する。

【解説】
正気とは、病気の原因に対する抵抗力のことである。正と邪とは相対するものであって、正気とはつまり真気のことである。『内経』では、正・邪と真・邪との対比を常用しているので、正気と真気とはたがいにいれかえて使うことができるのである。正風は、あるときは正気と称されて、実風・虚風と区別してもちいられている。正風とは、自然界での過不足のない気のことであるので正気という。
『内経』は、人体の正気を重視し、正気が旺盛であれば、邪気は侵入しにくくなって、人体に疾病は発生しないと考えている。
つまり「正気が内にあると、邪気はおかすことができない」のである。また、もし正気が虚弱であって、外邪に対する抵抗力が不足したときには、邪気が虚に乗じて侵入すると考えている。つまり「邪気が集まっているところは、かならず正気が虚となっている」ということである。
人体の正気の強弱は、体質・精神状態・生活環境・栄養・鍛錬などの状況と関係がある。
疾病のプロセスは、つまり正気と邪気の戦いのプロセスである。正気が不足しているものは虚証となり、邪気が非常に盛んなものは実証となる。
邪気が正気に勝てば病気は進み、正気が邪気に勝てば病気はなおる。それゆえに、疾病を治療するのには、正気をたすけ邪気をはらうことが、一つの重要な原則となるのである。


■血気
【原文】人之血気精神者、所以奉生而周於性命者也。経脈者、所以行血気而営陰陽、濡筋骨、利関節者也。・・・・・・
五蔵者、所以蔵精神血気魂魄者也。(『霊枢』「本蔵」)

人の血・気・精・神は、生を養い生命をめぐらせるものである。経脈は、血と気を運行し、陰陽をいとなむものであり、筋骨をなめらかにし、関節をスムーズにさせるものである。・・・・・・五臓とは、精・神・血・気・魂・魄を蔵するものである。

【原文】中焦受気取汁、変化而赤、是謂血。(『霊枢』「決気」)
中焦は気を受けて液体を生ずるが、それが変化して赤くなったものを血という。

【原文】中焦出気如露、上注谿谷、而滲孫脈、津液和調、変化而赤為血。血和則孫脈先満溢、乃注於絡脈。皆盈、乃注於経脈。・・・・・・血気己調、形気乃持。(『霊枢』「廱疽」)

中焦が露のように気を出し、のぼって谿・谷にそそぎ、孫脈にしみいり、津液を調和し、赤く変化して血となる。血が調和すれば、孫脈がまずいっぱいとなり絡脈にそそぎこむ。すべてが満ちると経脈にそそぐ。・・・・・・血気が調和すると、肉体は保持される。

【原文】中焦亦並胃中、出上焦之後。此所受気者、泌糟粕、蒸津液、化其精微。上注於肺脈、乃化而為血。以奉生身、莫貴於此。故独得行於経隧、命曰営気。黄帝曰、夫血之与気、異名同類、何謂也。岐伯答曰、営衛者精気也、血者神気也、故血之与気、異名同類焉。(『霊枢』「営衛生会」)

「中焦もまた上焦と同じく胃と並んだところにあり、〔中焦の気は〕上焦のうしろからでているのである。上焦・中焦から出た気のはたらきは、糟粕を分泌し、津液を蒸し、その精微を変化させる。のぼって肺脈にそそぎ、そこで変化して血となる。体を養生するには、これよりじゅうようなものはないのである。
これだけが経隧をめぐることができるので、これを営気というのである」。皇帝が問う、「血と気とは名を異にするが仲間であるとはどういうことか」。岐伯が答える、「営衛の気は精気であり、血は神気である。だから血と気とは名を異にするが仲間なのである」

【原文】血気己和、営衛己通、五蔵己成、神気舎心、魂魄畢具、乃成為人。・・・・・・人生十歳、五蔵始定、血気己通、其気在下、故好走。二十歳、血気始盛、肌肉方長、故好趨。三十歳、五蔵大定、肌肉堅固、血脈盛満、故好歩。四十歳、五臓六腑十二系脈、皆大盛以平定、腠理始疏、栄華頽落。髪頗斑白、平盛不揺、故好坐。五十歳、肝気始衰、肝葉始薄、胆汁始滅、目始不明。六十歳、心気始衰、苫憂悲、血気懈惰、故好臥。・・・・・・(『霊枢』「天年」)

血気調和し、営衛の気が通じ、五臓ができあがり、神気が心にやどり、魂魄がすべてそなわれば人となるのである。・・・・・・人が生まれて十歳になると、五臓が安定し、血気が通じ、その気はくだっているので、かけまわることがすきである。二十歳になると、血気はさかんになり、肌肉も成長するので、歩くのもはやくなる。三十歳になると、五臓はきわめて安定し、肌肉はしっかりとし、血脈も満ちわたるので、ゆったりと歩くようになる。

四十歳になると、五臓六腑・十二経脈はみな完成しきって、きめがあらくなりだし、いきいきとしていたのがおとろえてくる。頭髪も白くなりはじめ、さかんなようすもおさまって動揺しなくなるので、坐っているのを好むようになる。五十歳になると、肝気がおとろえ、肝葉も薄くなり、肝汁も減り、目もようやく見えにくくなってくる。六十歳になると、心気がおとろえ、たいへんに悲しみ憂えるようになり、血気もおとろえるので、寝ていることがすきになるのである。

【原文】血気倶盛而陰気多者、其血滑、刺之則射。陽気畜積、久留而不写者、其血黒以濁、故不能射。新飲而液滲於絡、而未合和於血也、故血出而汁別焉。(『霊枢』「血絡論」)

血・気がともにさかんで陰気が多いものは、血行もなめらかで、鍼を刺すと血が吹き出す。陽気が畜積されて長くとどまっていて瀉せないものは、血が黒くにごっていて、吹き出してこない。あらたに飲みものを飲んだ場合も、まだ経脈に滲透して血と合わさっていないときは、鍼を刺して血が出るときに、清んだ体液が別に出てくる。

【原文】血気者、喜温而悪寒。寒則泣不能流、温則消而去之。(『霊枢』「調経論」)

血気は、温をこのんで寒をきらう。寒であればゆきしぶって流れなくなり、温であればとどこおりが消えて流されるのである。

【原文】血気者、人之神。不可不謹養。(『霊枢』「八正神明論」)
血気とは、人の神気である。だから慎重に養わなくてはならない。

【原文】人始生、先成精。精成而脳髄生。骨為幹、脈為営、筋為剛、肉為牆。皮膚堅而毛髪長。穀入於胃、脈道以通、血気乃行。(『霊枢』「経脈」)

人がはじめて生まれるときには、まず精ができる。精ができた後に脳髄が生ずる。そして骨が基本となり、脈がそれをめぐり、筋がそれを強くし、肉がとりかこむ。そして皮膚ができあがり、毛髪がのびる。穀物が胃に入ると、脈が開通して、そこに血気が運行する。

【原文】十二系脈、三百六十五絡、其血気皆上於面而走空竅。(『霊枢』「邪気蔵府病形」)

十二系脈・三百六十五絡を運行する血気は、みな顔面にのぼり、耳目鼻口にそそいでいる。

【原文】年質壮大、血気充盈、膚革堅固。因加以邪、刺此者、深而留之。此肥人也。広肩腋項、肉薄厚皮而黒色、唇臨臨然、其血黒以濁、其気濇以遅。・・・・・・痩人者、皮薄色少、肉廉廉然、薄唇軽言。其血清気滑、易脱於気、易損於血。・・・・・・其端正敦厚者、其血気和調。・・・・・・嬰児者、其肉脆血少気弱、刺此者、以豪鍼、浅刺而疾発鍼、日再可也。(『霊枢』「逆順肥痩」)

壮年で体質がよい人は、血気が充満し、皮膚も堅固である。だからこの人が病邪を受けたときに、鍼を刺すには深く刺してとどめておく。これがふとった人への方法である。肩・腋・くびが広く、肉がうすく皮があつく、色が黒くてくちびるが大きい人は、血が黒くにごっており、気はとどこおって流れはおそい。・・・・・・やせた人は、皮膚がうすく、顔色が悪く、肉付きも悪くて、くちびるがうすく、声におもみがない。その血は清んでおり気も滑らかであるが気はぬけやすく血もきずつきやすい。・・・・・・体格がしっかりしており、精神もきちんとした人は、血気が調和している。・・・・・・赤ちゃんは、肉がやわらかで血は少なく気も弱いので、鍼を刺すには、毫鍼〔体毛のような鍼〕をもちい、浅く刺してすばやくぬき、一日に二度刺してもよい。

【原文】血気盛則充膚熱肉。血独盛則澹滲皮膚、生毫毛。今婦人之生、有余於気、不足於血。以其数脱血也。衝任之脈、不栄口唇、故鬚不生焉。(『霊枢』「五音五味」)

 血気がともにさかんであれば、皮膚は充実し肉も熱をもつ。血だけがさかんであれば、皮膚におだやかにしみわたり、うぶ毛がはえる。女性は生まれつき気はあまっているが、血は不足している。それはしばしば脱血するからであり、また衝と任の脈が口唇にめぐらないのでひげがはえないわけである。

【原文】足陽明之上、血気盛則髯短。故気少血多髯少。血気皆少則無髯、両吻多画。・・・・・・(『霊枢』「陰陽二十五人」)

足陽明の脈の上部の血気がともにさかんであれば、ほおひげがりっぱで長くなる。血が少なく気が多ければ、ほおひげは短い。だから気が少なく血が多ければ、ほおひげは少ない。血と気とがともに少なければ、ほおひげはなく、上下のくちびるの先にしわが多くなる。・・・・・・

【原文】気之逆順者、所以応天地陰陽、四時五行也。脈之盛衰者、所以候血気之虚実有余不足。(『霊枢』「逆順」)

気の逆順は、天地・陰陽・四季・五行に対応している。脈の盛衰は、血気の虚実や過不足によるものである。

【原文】陰陽者、血気之男女也。(『素問』「陰陽応象大論」)
 陰陽とは、血気における男と女のようなものである。

【原文】天温日明、則人血淖液而衛気浮。故血易写、気易行。天寒日陰、則人血凝泣而衛気沈。月始生、則血気始精、衛気始行。月郭満、則血気実、肌肉堅。月郭空、則肌肉減、経絡虚、衛気去、形独居。是以因天時而調血気也。(『素問』「八正神明論」)

天候があたたかく、日が明るいと、人の血もやわらいで流れ、衛気は体表にうかびあがってくる。だから血は瀉しやすく、気はめぐりやすい。天候が寒く、日もかげっていると、人の血もかたまりとどこおって、衛気も体内に沈んでいく。月が新月のときは、血気も純正になり、衛気もめぐりだす。満月になると、血気は充実し皮膚もひきしまる。月がかけてしまうと、皮膚がおとろえ、経絡は虚となり、衛気も去って、肉体だけが残る。こうしたわけであるから、天の時にしたがって血気を調節するのである。

【原文】審其陰陽、以別柔剛。陽病治陰、陰病治陽、定其血気、各守其郷。血実其決之、気虚宜□引之。(『素問』「陰陽応象大論」

陰陽を明らかにして、柔と剛とを区別する。そこで陽の病は陰の部位で治療し、陰の病は陽の部位で治療する。血気を安定させ、おのおのの本来の気のある場所を守るのである。そして血が実になれば、これを瀉してやり、気が虚になれば、導引して補してやるのである。

【原文】百病之始生也、皆生於風雨寒暑、陰陽喜怒、飲食居処、大驚卒恐。則血気分離、陰陽破散、経絡厥絶、脈道不通。陰陽相逆、衛気稽留、経脈虚空。血気不次、乃失其常。(『霊枢』「口問」)

すべての病は、みな風雨・寒暑・陰陽・喜怒・飲食・住居、それに驚愕・恐怖によっておこるのである。これらにより血気が分離し、陰陽がそこなわれ、経絡が絶ちきれ、脈動も通じなくなる。陰陽がせめぎあい、衛気はとどこおり、経脈も虚になる。血気も順序がみだれ、その常態を失ってしまう。

【原文】営気濡然者、病在血気。・・・・・・血気有輸、・・・・・・血気之輸、輸於諸絡。気血留居、則盛而起。(『霊枢』「衛気失常」)

営気がしめっているのは、病の気が血気にあるからである。・・・・・・血気にはめぐるはたらきがある。・・・・・・血気のめぐるはたらきは諸経の絡穴に〔血気を〕送るものである。気血がとどまっていれば、絡脈はさかんになっておこる。

【原文】鹹走血。多食之、令人渇。・・・・・・鹹入於胃、其気上走中焦、注於脈、則血気走之。血与鹹相得則凝、凝則胃中汁注之、注之則胃中竭。竭則咽路焦。故舌本乾而善渇。血脈者、中焦之道也、故鹹入而走血矣。(『霊枢』「五味論」)

鹹味は血をめぐる。それをたくさん食べると渇きがおこる。・・・・・・鹹味が胃に入ると、その気はのぼって中焦にめぐり、さらに脈にそそぐので血気がそこをめぐる。血と鹹味の気があわさるとかたまり、かたまると胃の中の液体がそれにそそぎこむので、胃の中が渇れる。渇れるとのどがひりひりとする。だから舌の根もとも乾いてしまって渇きがおこるのである。血脈とは、中焦の系統であるから、鹹味が入ると血がめぐるのである。

【原文】営衛稽留於脈之中、則血泣而不行。不行則衛気従之而不通。壅遏而不得行、故熱。大熱不止、熱勝則肉腐、肉腐則為膿。然不能陥、骨髄不為燋枯、五蔵不為傷、故命曰癰。熱気淳盛、下陥肌膚筋髄枯、内連五蔵、血気竭。当其癰下、筋骨良肉皆無余、故命曰疽。(『霊枢』「癰疽」)

営衛の気が経脈の中にとどまると、血はとどこおってめぐらなくなる。血がめぐらなくなると衛気はそれによって通じなくなる。さえぎられてめぐることができないために熱をもつ。激しい熱がとどまらず、熱が勝てば肉がくさり、肉がくさるとうみができる。しかし、それ以上深くなることはできないため、骨髄は炎症をおこさず、五臓もそこなわれない。だから癰というのである。

熱気がきわめてさかんであると、深く皮膚に侵入して、筋や骨髄が枯れ、体内では五臓に達して、血気はつきてしまうのである。その癰がくだるにしたがい、筋・骨・良い肉のすべてがなくなってしまったのを、疽とよぶのである。

【原文】人之所有者、血与気耳。今夫子乃言血□為虚、気□為虚、是無実乎。岐伯曰、有者為実、無者為虚。故気□則無血、血□則無気。今血与気相失、故為虚焉。絡之与孫脈倶輸於経、血与気□、則為実焉。血之与気□走於上、則為大厥、厥則暴死。気復反則生、不反則死。(『素問』「調経論」)

「人の生命を維持しているものは、血と気だけである。今、先生は血が気と合わさると気が虚となり、気が血にあわさると血が虚となるというが、それでは実ということはないのであろうか」。岐伯が答える、「血気があるものは実であり、ないものは虚である。だから気が血とあわさってしまうと血がなくなってしまい、血が気とあわさってしまうと気がなくなってしまう。このように血と気がそれぞれ失われてしまうので、虚というのである。絡脈が孫脈とともに〔血気を〕経の送ると、血は気とあわさって実となる。血が気とあわさって上にめぐると、はげしくのぼせてにわかにしんでしまう。気がもとにもどれば生きられるが、もとにもどらなければ死んでしまうのである」

【原文】離絶菀結、憂恐喜怒、五蔵空虚、血気離守、工不能知、何術之語。(『素問』「疏五過論」)

 親しいものと離ればなれになって想いを絶たれ、考えが鬱積してうらみがなまり、憂え恐れ喜び怒ったりすると、五蔵はからっぽになり、血気もあるべき気の役割から離れてしまう。工〔医療技術者〕がこれを知らなければ、どのような医術を語ることができようか。

【原文】卒然喜怒不節、飲食不適、寒温不時、腠理閉而不通。其開而遇風寒、則血気凝結、与故邪相襲、則為寒痺。(『霊枢』「賊風」)

突然に喜んだり怒ったり、飲食が不摂生になったり、気候が不順であると、毛穴が閉じて通じなくなる。それが開いたとき、風・寒にあうと、血気がこりかたまってしまい、もとからあった邪気と一緒になるので寒痺〔寒の邪気により体が麻痺する病〕となってしまうのである。

【原文】余欲乃勿使被毒薬、無用砭石。欲以微鍼通其経脈、調其血気、営其逆順出入之会。(『霊枢』「九鍼十二原」)

「私〔黄帝〕は病に対して、薬を投与したくはないし、砭石〔いしばり〕を用いることのないことを願う。そして、細い鍼を用いて経脈を通じさせ、血気を調和させ、それぞれの運行や出入の要所を順調にすることを願うのである」

【原文】用鍼之理、必知形気之所在、左右上下、陰陽表裏、血気多少、行之逆順、出入之合、謀伐有過。(『霊枢』「官能」)

用鍼の道理としては、体の気のある場所、左右・上下・陰陽・表裏、血気の多少、血気のめぐりかたの逆順、出入の要所を把握して、あやまっているところがあれば正してやるのである。

【原文】陰陽和調而血気淖沢滑利、故鍼入而気出、疾而相逢也。(『霊枢』「行鍼」)

陰陽が調和して血気がゆたかでなめらかに運行しているので、鍼が入ると気が出てきて、すぐに気と鍼とが出会うのである。

【原文】春刺絡脈、血気外溢、令人少気。春刺肌肉、血気環逆、令人上気。春刺筋骨、血気内著、令人腹張。(『素問』「四時刺逆従論」)

 春に絡脈へ鍼を刺すと、血気は外にあふれだすので、気を少なくさせてしまう。春に肌肉へ刺すと、血気が逆にめぐるので、気をのぼらせてしまう。春に筋骨へ刺すと、血気が内にたまり、腹をふくらませてしまう。

【解説】
血は気を源として生じ、脈内を流動しているので「血気」といわれる。血気は肉体を構成する重要な物質である。気は、血を生じ、血をめぐらせ、血をとりこむことができる。だから「気は血の母である」(『医経溯洄集』)〔王履1322‐?撰〕、「気は血の司令官である」(『直指方』)〔揚士瀛1264ごろ撰〕、「血を統治しているのは気である」(『氏医案』)〔□己1486-1558撰〕などといわれるのである。気はまだ血液に依存して全身を循環している。だから「血は気の守り役となっている」(『血証論』)〔唐宗海1862‐1918撰〕、「血は気を蔵している」(『読医随筆』)〔清、周学海撰〕などといわれるのである。

気と血とは密接に関係しているが、気こそが主であるのである。そこで「陽は陰を統括し、気は血を統括する」といわれるわけである。大出血した病人は、脱血したため、気は依存するものがなくなって、ついには外へ出てしまう。「有形の血はすぐに生ずることはできないので、無形の気をすぐに安定させなければならない」のだから、臨床治療においては、出血した患者さんに対しては常に益気の法をもちいて治療する。それはこの理論によっているのである。

『内経』は、血気の人体における状態として、陰気が多くて清んでいるもの、陽気が多くて濁っているもの、出血した血が清んでいてなかば液体となっているものをあげている。これは現代医学の、動脈血・静脈血・血漿成分とよく似ている。

血気と、日月星辰・天地四季とは密接に対応しており、人体内外の環境が統一された全体であるという観念をあらわしている。血気は、人体の生命活動における物質的な基礎である。目で見ること・足で歩くこと・手でにぎること・指でつまむことから、皮膚の温寒や痛痒の感覚・精神の意識や思惟の活動にいたるまで、血気の育養を必要としないものはない。もし血気が不足すると、健忘症・不眠症・失明・しびれ・半身不随などをひきおこし、はなはだしい場合には昏迷して死に至ってしまうのである。


■陽気・陰気
【原文】陽気者若天与日。失其所則折寿而不影。故天運以日光明。是故陽因而上、衛外者也。・・・・・・陽気者、精則養神、柔則養筋。・・・・・・・陽気者、一日而主外。平旦人気生、日中而陽気隆、日西而陽気己虚、気門乃閉。・・・・・・
陰者、蔵精而起亟也。陽者、衛外而為固也。・・・・・・凡陰陽之要、陽密乃固。・・・・・・
陰平陽秘、精神乃治。陰陽離決、精気乃絶。・・・・・・(『素問』「生気通天論」)

人体の陽気は、天や太陽のようなものである。天がそのありかたをたがえると、太陽は寿命をなくして明るさを失ってしまう。もともと天の運行は、太陽の光によって明るくなっているからである。このよに、人体の陽気も太陽のように上昇して体外を衛っているのである。・・・・・・
陽気は、一日のほとんどは体外にある。夜明けに人気が生まれ、日中には陽気がさかんになり、夕方になると陽気は虚となり、気の門は閉まってしまう。・・・・・・陰とは、精気を蔵して〔外に〕対応して反応するものである。陽とは体外を衛り堅固にするものである。・・・・・・
そもそも陰陽調和の要点は、陽気が密であって堅固であることである。・・・・・・陰が平静であって陽が閉ざされていると精神は安定する。陰陽がはなればなれになると精気は絶えてしまう。・・・・・・


【原文】陰陽者、天地之道也、万物之網紀、変化之父母、生殺之本始、神明之府也。治病必求其本。故積陽為天、積陰為地。陰静陽躁、陽生陰長、陽殺陰蔵。陽化気、陰成形。・・・・・・
陽為気、陰為味。・・・・・・陰味出下竅、陽気出上竅。・・・・・・気味、辛甘発散為陽、酸苦涌泄為陰。・・・・・・
陰在内、陽之守也。陽在外、陰之使也。(『素問』「陰陽応象大論」)

陰陽とは、天地の道理であり、万物の総括者であり、すべての変化の父母であり、生殺の根本である、神明をつかさどるところである。病をなおすには、その根本〔である陰陽の動向を〕さぐりあてなければならない。そこで、陽を集めたのを天となし、陰を集めたものを地となして、陰は静かで陽はさわがしく、陽は生み陰は育て、陽は殺し陰は蔵し、陽は気を変化させ陰は形を作り上げるものとするのである。・・・・・・
陽は気となり、陰は味となる。・・・・・・陰の味は下半身の穴から排出され、陽の気は耳目鼻口へ排出去れる。・・・・・・気の味のうち、辛味と甘味は発散のはたらきであるから陽となり、酸味と苦味ははきだすはたらきであるから陰となる。・・・・・・
陰は内にあるので、陽の主人であり、陽は外にあるので、陰の臣下である。

【原文】陽中有陰、陰中有陽。・・・・・・陰陽相錯、而変由生也。(『素問』「天元紀大論」)

陽の中に陰があり、陰の中にも陽がある。・・・・・・陰陽がたがいに交わり、変化が生ずる。

【原文】陰者受気於上焦、以温皮膚分肉之間。(『素問』「調経論」)

陽は気を上焦から受けて、皮膚と分肉の間をあたためる。

【原文】陽気起於足五指之表。陰脈者集於足下而聚於足心、・・・・・・陰気起於五指之裏。集於膝下而聚於膝上。(『素問』「厥論」)

陽気は足の五本の指のおもてからはじまる。陰脈は足のうらにあつまってから足の中央にあつまる。・・・・・・陰気は足の五本の指のうらにはじまる。ひざの下にあつまってからひざの上にあつまる。

【原文】丈夫・・・・・・六八、陽気衰竭於上、面焦、髪鬢頒白。(『素問』「上古天真論」)

 男性は・・・・・・四十八歳になると陽気が上半身でおとろえてくるので、顔にはしわがあらわれて、髪には白いものがまじってくる。

【原文】能知七損八益、則二者可調。不知用此、則早衰之節也。年四十、而陰気自半也、起居衰矣。(『素問』「陰陽応象大論」)

 七度損しても八度得するということがわかれば、陰陽の二つを調和することができるのである。その用いかたを知らないと、おとろえる時期が早まってしまう。四十歳になると、陰気が半分を占めて、起居の動作はおとろえてくるのである。


【原文】陽強不能密、陰気之絶。・・・・・・陽畜積病死。而陽気当隔。隔者当写。不亟正治、粗乃敗之。・・・・・・
陰不勝其陽、則脈流薄疾、□乃狂。陽不勝其陰、則五蔵気争、九竅不通。(『素問』「生気通天論」)

陽気が強すぎると緻密になることができないため、陰気が〔もれでて〕絶えてしまう。・・・・・・陽気が蓄積すると病死する。それは陽気がふさがっているからである。ふさがったものは、瀉さなければならない。すみやかに正しく治さずに、手荒にやると失敗してしまう。・・・・・・
陰が陽に勝っていないと、脈の流れはせめぎあって早くなり、さらにはげしくなると発狂してしまう。陽が陰に勝っていないと、五臓の気があらそって、体の九つの穴が通じなくなってしまう。

【原文】陰勝則陽病、陽勝則陰病。陽勝則熱、陰勝則寒。・・・・・・暴怒傷陰、暴喜傷陽。・・・・・・重陰必陽、重陽必陰(『素問』「陰陽応象大論」)

陰が勝てば陽が病み、陽が勝てば陰が病む。陽が勝てば発熱し、陰が勝てば寒気がする。・・・・・・過度の怒りは陰を傷つけ、過度のよろこびは陽を傷つける。・・・・・・陰がかさなりあうと陽になり、陽がかさなりあうと陰になるのである。

【原文】陽虚則外寒。陰虚則内熱。陽盛則外熱、陰盛則内熱。(『素問』「調経論」)

陽が虚しければ体表が寒くなる。陰が虚しければ体内が熱を発する。陽がさかんになると体表が熱を発し、陰がさかんになると体内が寒くなる。

【原文】陰気者、静則神蔵、躁則消亡。(『素問』「痺論」)

陰気が安定していると神気はおちつき、そうぞうしいと神気は消耗してなくなってしまう。

【原文】陽気者、煩労則張、精絶辟積。於夏使人煎厥。目盲不可以視、耳閉不可以聴、潰潰乎若壊都、汨汨乎不可止。
陽気者、大怒則形気絶、而血菀於上、使人薄厥。有傷於筋、縦、其若不容。(『素問』「生気通天論」)

陽気は多忙であって疲労がかさなると膨張し、精気が絶えてなくなり陽気ばかりがかたよってたまってしまう。これが夏であると、煎厥〔手足が冷えてのぼせる病気〕になってしまう。そして目はみえなくなり、耳はきこえなくなり、乱れきって腐都のようになり、もだえ苦しんでとまらなくなる。陽気は、はげしく怒ると体の気が絶えて、血が頭に集中してのぼせになってしまう。このとき筋が傷つくと、ゆるんで力がはいらなくなってしまう。

【原文】陽気衰於下、則為寒厥、陰気衰於下、則為熱厥(『素問』「厥論」)

陽気が下半身でおとろえると寒厥〔寒さによる手足の冷え〕となり、陰気が下半身でおとろえると熱厥〔熱による手足の冷え〕となる。


【原文】陽気者、因暴折而難決。故善怒也。病名曰陽厥。(『素問』「病能論」)

陽気は、さまたげられることによって散じにくくなる。そのために怒りやすくなる。この病名を陽厥〔熱による手足の冷え・卒頭〕という。

【原文】所謂少善怒者、陽気不治。陽気不治則陽気不得出、肝気当治而未得、故善怒。善怒者名曰煎厥(『素問』「脈解」)

気が少なくなって怒りやすいものは、陽気が安定していないのである。陽気が安定していないと発出することができず、すると肝気が安定すべきなのにそれもできず、怒りやすくなるのである。怒りやすくなるものの病名を煎厥という。

【原文】人厥則陽気□於上、陰気□於下。陽□於上、則火独光也。陰□於下、則足寒。足寒則腸也。(『素問』「解精微論」)

人が厥になると、陽気が上半身に集中し、陰気が下半身に集中する。陽気が上半身に集中すると、火気がさかんにかがやくようになる。陰気が下半身に集中すると、足が冷える。足が冷えるとむくみがでる。

【原文】陰気少而陽気勝、故熱而煩満也。・・・・・・是人多痺気也。陽気少、陰気多、故身寒如従水中出。・・・・・・是人者陰気虚、陽気盛、四支者陽也。両陽相得而陰気虚少、少水不能滅盛火、而陽独治。独治者不能生長也。独勝而止耳。逢風而如炙如火者、是人当肉爍也。(『素問』「逆調論」)

陰気が少なくて陽気が勝っていると、発熱して苦しみでいっぱいになるのである。・・・・・・この人は痺気が多く、陽気が少なく、陰気が多いために、水の中から出てきたように体が冷えるのである。・・・・・・この人は体内の陰気が虚しくて、陽気がさかんで、四肢にはもともと陽気があるものである。
この内外の陽気が合わさり、陰気が虚少となるため、ちょうど少しの水ではさかんな火を消すことはできないように、身体を陽気が独占してしまっているのである。陽気が独占すると〔人間は〕成長することができない。かたよってさかんになると成長がとまってしまうのである。風にあたって体が火のようにほてる場合、その人は肉爍〔肉がとけようとしている〕になっているのである。

【原文】瘧之始発也、先起於毫毛。伸欠乃作、寒慄鼓頷、腰脊倶痛。寒去則内外皆熱、頭痛如破、渇欲冷飲。帝曰、何気使然。願聞其道。岐伯曰、陰陽上下交争、虚実更作、陰陽相移也。陽□於陰、則陰実而陽虚。陽明虚則寒慄鼓頷也。巨陽虚則腰背頭項痛。三陽倶虚則陰気勝。陰気勝則骨寒而痛、寒生於内。故中外皆寒。陽盛則外熱、陰虚則内熱。外内皆熱則喘而渇。故欲冷飲也。・・・・・

寒者陰気也、風者陽気也。先傷於寒而後傷於風。故先寒後熱也。病以時作、名曰寒瘧。帝曰、先熱而後寒者何也。岐伯曰、此先傷於風而後傷於寒、故先熱而後寒也。亦以時作、名曰温瘧。其但熱而不寒者、陰気先絶、陽気独発、則少気煩寃、手足熱而欲嘔。名曰癉瘧。・・・・・・瘧気者、□於陽則陽勝、□於陰則陰勝。陰勝則寒、陽勝則熱。(『素問』「瘧論」)

おこりがはじめて発病するときは、まず体毛の先におこる。あくびが出て、がたがたとふるえて、あごが鳴り、腰と背が両方いたむ。その寒けが去ると、体の内外からみな熱がおこり、頭がわれるようにいたく、のどがかわき、つめたいのみ物がほしくなる。
黄帝が問う、「いかなる気がそのようにさせるのか。その原因を聞かせてほしい」。岐伯が答える、「陰陽が上下にこもごもあらそい、虚と実がたがいに作用しあい、陰陽がたがいに移動しあう。陽気が陰気に合わさると、陰が実となり陽が虚となる。陽明経が虚となれば、がたがたとふるえて、あごが鳴る。太陽経が虚となれば腰・背・頭・項がいたくなる。

三陽経脈〔陽明・太陽・少陽〕がすべて虚であると陰気が勝つ。陰気が勝つと骨が冷えていたくなり、寒けが体内に生ずる。だから体の内外がみな寒くなるのである。陽気がさかんになると体表が発熱し、陰気が虚であると体内が発熱する。体の中も外も発熱すれば、ゼイゼイと呼吸が荒くなり、のどがかわく。だからつめたいのも物がほしくなるのである」・・・・・・

 寒けは陰気であり、風は陽気である。まず寒けに傷つけられ、そののちに風に傷つけられるのである。だからまず寒けがしてから熱が出るのである。この症状は季節によっておこるのだが、これを寒瘧という。黄帝が問う、「先に熱が出て、そののちに寒気がするのはどうなのか」。岐伯が答える、「この場合まず風に傷つけられてから寒けに傷つけられるのである。だから先に熱が出て、そのあとで寒けがするのである。

この症状も季節によっておこるのだが、これを湿瘧という。ただ熱が出るのみで寒けがない場合は、陰気が先になくなり、陽気だけが発しているので、気が少なくなり、もだえ苦しんで手足が熱くなって吐きけをもよおす。これを癉瘧という」・・・・・・瘧気は、陽と合わされば陽が勝ち、陰と合わされば陰が勝つ。陰が勝てば寒けがし、陽が勝てば熱が出るのである。

【原文】其寒者、陽気少、陰気多、与病相益。故寒也。其熱者、陽気多、陰気少。病気勝陽遭陰。故為痺熱、其多汗而濡者、此其逢湿甚也、陽気少、陰気盛。両気相感、故汗出而濡也。(『素問』「痺論」)

寒けがするのは、陽気が少なく陰気が多いからであり、病にしたがってはげしくなる。だから寒けがするのである。熱は、陽気が多く陰気が少ないからである。病気が勝って陽気が陰気をあわせるのである。だから痺熱となる。その汗が多くぬれていると、しめりけがひどくて、陽気が少なくなり陰気がさかんになる。そして陰陽の気が感応しあうので汗が出てぬれてしまうのである。

【原文】有所遠行労倦、逢大熱而渇。渇而陽気内伐。内伐則熱舎於腎。腎者水蔵也。今水不勝火、則骨枯而随虚、故足不任身、発為骨痿。(『素問』「痿論」)

遠出をして体がつかれているとき暑さにあうと、のどがかわく。のどがかわくと陽気が体内で暴れる。陽気が体内で暴れると、熱が腎臓にやどる。腎臓は水の臓器である。今、水が火に勝てないと、骨が枯れて骨髄が虚になる。だから、足がふらふらになり、発病して骨痿になるのである。

【原文】陽気有余而陰気不足。陰気不足則内熱、陽気有余則外熱。内熱相搏、熱於懐炭、外畏綿□近、不可近身、又不可近席。腠理閉塞則汗不出、舌焦唇槁腊、腊乾嗌燥、飲食不譲美悪。(『霊枢』「刺節真邪」)

陽気に余りがあると陰気が不足する。陰気が不足すると体内が発熱し、陽気に余りがあると体表も発熱する。体内の熱がせめぎあうと熱は懐炉のようになり、体表は衣服がつけられなくなり、近づくこともできず、横になることもできなくなる。毛穴がふさがり汗が出なくなり、舌が焦げくちびるもかさかさになって乾燥し、飲食物も味の良し悪しがわからなくなる。

【原文】邪在脾胃、則病肌肉痛。陽気有余、陰気不足、則熱中善飢。陽気不足、陰気有余、則寒中腸鳴腹痛。陰陽倶有余、若倶不足、則有寒有熱、皆調於三里。(『霊枢』「五邪」)

邪気が脾胃にあると、肌肉が病んで痛む。陽気が余り、陰気が不足すると、胃の中が熱を生じ、よく腹が減る。陽気が不足して、陰気が余りあると、胃の中が冷え、腸が鳴り腹痛になる。陰陽ともに余りあるか、もしくはともに不足すると、冷えと熱がともに生じる。これらの症状はすべて三里で調節する。

【原文】寒気客於皮膚、陰気盛、陽気虚、故為振寒寒慄。(『霊枢』「口問」)

寒気が皮膚にやどると、陰気がさかんになり陽気は虚になって、体ががたがたとふるえる。

【原文】悲哀太甚、則胞絡絶。胞絡絶則陽気内動、発則心下崩数溲血也。(『素問』「痿論」)

悲哀があまりにひどいと、心包絡〔心臓をおおう二枚のうすい膜〕がやぶれる。心包絡がやぶれると陽気が内で動く。陽気が発すると、心包絡は下に崩れて、しばしば血がもれだす。

【原文】喜怒不節則陰気上逆、上逆則下虚、下虚則陽気走之。故曰実矣。(『素問』「調経論」)

 喜怒が不安定であると、陰気が逆にのぼり、逆にのぼると下半身が虚しくなり、下半身が虚しくなると、陽気がそこへ走る。これを実という。

【原文】病之生時、有喜怒不測、飲食不節、陰気不足、陽気有余、営気不行、乃発為癰疽。(『霊枢』「玉版」)

病が生じるときは、感情が測定できず、飲食が不節制で、陰気が不足して陽気に余りがあり、営気がめぐらなくなり、できものができる。

【原文】因於気、為腫。四維相代、陽気乃竭。(『素問』「生気通天論」)

気によってはれものができる。四維〔筋・骨・血・肉〕がたがいに邪気をうけとりあうと、陽気がつきてしまう。

【原文】陰気盛於上則下虚。下虚則腹脹満。陽気盛於上則下気重上而邪気逆。逆則陽気乱、陽気乱則不知人也。
(『素問』「厥論」)

陰気が上半身でさかんになれば、下半身が虚しくなる。下半身が虚しくなれば腹がふくらんでくる。陽気が上半身でさかんになると、下半身の気は上半身の気にかさなるようにのぼり、邪気も逆流する。序気功師が逆流すると陽気が乱れ、陽気が乱れると人事不省になる。

【原文】所謂強上引背者、陽気大上而争。故強上也。所謂耳鳴者、陽気万物盛上而躍。故耳鳴也。
所謂甚則狂巓疾者、陽尽在上而陰気従下、下虚上実。故狂巓疾也。・・・・・・
所謂不可反側者、陰気蔵物也、物蔵而不動。故不可反側也。・・・・・・所謂上喘而為水者、陰気下而復上、上則邪客於蔵府間。故為水也。所謂胸痛少気者、水気在蔵府也。水者陰気也、陰気在中。故胸痛少気也。・・・・・・
所謂嘔欬上気喘者、陰気在下、陽気在上、諸陽気浮、無所依従。故嘔欬上気喘也。(『素問』「脈解」)

背中が上の方に強くひっぱられるのは、陽気が大いにのぼって有らそうからである。だから上部がつよくなるのである。耳鳴りは、陽気のすべてがさかんにのぼって暴れるのである。だから耳鳴りがするわけである。
陽気がひどいと、狂ったり癲癇になったりするのである。・・・・・・

ねがえりができないのは、陰気は物を蔵するものであるが、物が蔵されると動けなくなるからである。だからねがえりができなくなるわけである。ゼイゼイとして腹水の状態になるのは、陰気がくだってまたのぼり、のぼると邪気が内臓の間にやどるからである。
だから腹水になるのである。胸が痛んで気がすくなくなるのは、水気が内臓にあるのである。水とは陰気であるから、陰気の肺の中にあるわけである。だから胸が痛んで気が少なくなるのである。

せきこんでゼイゼイするのは、陰気が下半身にあり、陽気が上半身にあって、もろもろの陽気が浮きあがって依拠するところがなくなるためである。だからせきこんでゼイゼイするのである。

【原文】陰気太盛、則陽気不能栄也。故曰関。陽気太盛、則陰気弗能栄也。故曰格。陰陽倶盛、不得相栄。故曰関格者、不得尽期而死也。(『霊枢』「脈度」)

陰気がきわめてさかんであると、陽気は栄えることができない。だから「関」〔陰気が陽気を閉じ込めている状態〕という。陽気が非常にさかんであると、陰気は栄えることができない。だから「格」〔陽気が陰気をこばんでいる状態〕という。陰陽がともにさかんであると、たがいに栄えることができない。だから「関格」
〔人迎脈と寸口脈がともに平常の四倍以上であり、陰陽がはなればなれになっている状態〕という。「関格」になると生をまっとうできず、死んでしまうのである。

【原文】陽気和利、満於心、出於鼻。故為嚏。(『霊枢』「口問」)

陽気がスムーズであると、心臓に一杯になり鼻から出る。だからくしゃみがでる。

【原文】陽気積於下、陽気未尽、陽引而上、陰引而下。陰陽相引、故数欠。陽気尽陰気盛、則目瞑、陰気尽而陽気虚、則寤矣。・・・・・・陰気盛而陽気虚、陰気疾而陽気徐。陰気盛而陽気絶、故為唏。(『霊枢』「口問」)

陰気が下半身にたまっていても、陽気がまだあるときは、陽気はひっぱられてのぼり、陰気はひっぱられてくだる。陰陽それぞれがひっぱられるので、あくびがなんどもでるのである。陽気がつきてしまって陰気がさかんであると、ねむくなり、陰気がつきて陽気も虚になると、おきだすのである。・・・・・・
陰気がさかんで陽気が虚しくなると、陰気ははやくなり、陽気はおそくなる。陰気がさかんで陽気が絶えてしまうと、ためいきがでるのである。

【原文】善診者、察色按脈、先別陰陽。(『素問』「陰陽応象大論」)

善い医者は、患者の顔色をみて脈をはかり、まずは病気の陰陽の区別を明確にする。

【原文】診法常以平旦。陰気未動、陽気未散。飲食未進、経脈未盛。絡脈調匀、気血未乱。故乃可診有過之脈。・・・・・・
濇者陽気有余也、滑者陰気有余也。(『素問』「脈要精微論」)

診療は常に夜明けにやるのがよい。陰気もまだ動きださず、陽気もまだ発散しはじめていない。飲食もしていないし、経脈もまださかんになっていない。各脈は均衡をたもっていて、気血はおちついている。だから、異常のある脈を診断することができるのである。・・・・・・脈が渋るものは陽気が余っており、なめらかなものは陰気が余っているのである。

【原文】審其陰陽、以別柔剛、陽病治陰、陰病治陽。(『素問』「陰陽応象大論」)

陰陽をつまびらかにし、柔剛をはっきりさせてから、陽の病は陰の部位をなおし、陰の病は陽の部位をなおして、バランスをとるのである。

【解説】
気は世界を構成するもっとも基本的な物質であり、陰陽の区別がある。古代の哲学者王充は「人は生まれてくる原因は、陰陽の気にある。陰気はおもに骨肉となり、陽気はおもに精神となる」と考えていた。張載もまた気に陰陽の二つがあり、天地の間の一切の変化はすべて陰陽二気の作用にほかならないと考えていた。そこで医学者の張景岳は、「天地の道理とは、陰陽の気によって万物を生成化育するものである」と説いているのである。また王安道〔1322-?〕は、「人が生きていられるのは、気のおかげである。気とは何か。陰陽のことである」と指摘している。中国医学の陰陽の学説は、古代唯物主義の思想に由来するものだったのである。

陰陽二気は各種の具体的な気の属性から抽象されたものであり、それによってさまざまな意義をそなえるようになったものである。天地や四季についていえば、天は陽気であり、地は陰気である。〔また四季のうち〕春夏は陽気がおおく、秋冬は陰気がおおい。人体〔の気〕についていえば、清気は陽であり、濁気は陰である。大気は陽であり、血気は陰である。衛気は陽であり、営気は陰である。神気は陽であり、精気は陰である。心臓・肺の気は陽であり、肝臓。脾臓・腎臓の気は陰である。邪気についていえば、風・暑・火・燥の邪気は陽であり、寒・温・水の邪気は陰である。しかしながら、これらの陰陽二気の区別は絶対的なものではなく、むしろ相互に包合しあうものであって、陰中に陽があり、陽中にも陰があると表現されるものである。たとえば、清気は陽であるが、清気の中の濁ったものは陰である。濁気は陰であるが、濁気の中の清んだものは陽なのである。

また、五臓の気にもそれぞれ陰陽の区別がある。心臓〔の気〕は陽であるが、これもまた心陰と心陽とに区別することができる。営衛の気は、「気と質についていえば、衛気は陽であるが、形質は陰である。内と外という点から区別するならば、衛気は外において衛るから陽であり、営気は内において営み養うものであるから陰である。そしてさらにこまかく区別すれば、営気の中にもまたおのずから陰陽があるのである」とされるのである。こうしてみると、陰陽二気が、事物の矛盾対立と相互連関とを、深く反映していることをみいだすのは、さほどむずかしくはない。かくして、人体の生理活動・病理変化・対症療法のすべては、陰陽の二気をもちいて概括的に説明できるのである。
陰陽の二気が対立しつつも相互に根拠をもちあい、また消長変化するという法則は、人体の生命活動の基本法則である。陰陽のバランスは、生命活動を維持する基本的な条件であり、発病の原因・病理はすべて陰陽二気の失調によって説明できる。
したがって中国医学では、「陰が平らかであって陽が秘されていると精神は安定する」「陰陽がはなればなれになると、精気は絶えてしまう」ということが強調されるのである。臨床上でもそれと対応して、「陰の病は陽の部位をなおし、陽の病は陰の部位をなおす」という治療の原則を採用しており、「つつしんで陰陽のありかたを洞察してこれをととのえ、それを平衡することによって〔治癒の〕めどとする」のである。

以上を、まとめれば、陰陽二気は、中国医学の理論体系の諸方面をつらぬいて、広く人体の生理機能、疾病の発生・発展・転化の説明に応用されているのである。また、それは同時に臨床的な診断と治療とをみちびくものであった。だからこそ、『素問』「宝命全形論」には、「人は生まれながらに肉体をもっているので、陰陽とははなれてありえない」とされるのである。


■五臓の気
【原文】胃者、水穀之海、六府之大源也。五味入口、蔵於胃以養五蔵気。気口亦太陰也。是以五蔵六府之気味、皆出於胃、変見於気口。(『素問』「五蔵別論」)

胃とは、飲食物のあつまる海であり、六府の偉大な源泉である。五味が口からはいると、まず胃に貯蔵され、そこで五臓の気が養われる。気口〔橈骨茎状突起の内側の寸口〕は手の太陰脈にある。したがって五臓六腑に送られる気と味とは、すべて胃から発して変化して気口にあらわれるのである。

【原文】五蔵気、心主噫、肺主咳、肝主語、脾主呑、腎主欠。六府気、肺為怒、胃為気逆噦、大腸小腸為泄、膀胱不約為遺溺、下焦溢為水。・・・・・・五悪、肝悪風、心悪熱、肺悪寒、腎悪燥、脾悪湿、此五蔵気所悪也。(『霊枢』「九鍼」)

五臓の気について、心はおくびをつかさどり、肺は咳をつかさどり、肺はしゃべることをつかさどり、脾はのみこむことをつかさどり、腎はあくびをつかさどっている。六府の気について、胆は怒りをおこし、胃はしゃっくりをおこし、大腸・小腸は排泄のはたらきをし、膀胱のしまりが悪いと尿をもらし、下焦があふれると下痢になる。・・・・・・五悪についていえば、肝は風をきらい、心は熱をきらい、肺は寒さをきらい、腎はかわくことをきらい、脾はしめりけをきらう。これが五臓のきらうところのものである。

【原文】五色之見於明堂、以観五蔵之気、左右高下、各有形乎。岐伯曰、府蔵之在中也、各以次舎、左右上下、各如其度也。(『霊枢』「五閲五使」)

「内臓の病が表面にあらわれる場合、明堂〔鼻〕にあらわれる色によって五臓の気をおしはかるが、なぜ左右上下などのあらわれかたがあるのか」。岐伯が答える、「五臓六腑の体内でのありかたは、それぞれに順序と場所があり、左右上下のあらわれかたにはそれぞれ秩序があるのである」

【原文】五蔵之気、故色見青如草茲者死。黄如枳実者死。黒如炱者死。赤如衃血者死。白如枯骨者死、此五色之見死也。(『素問』「五蔵生成」)

五臓の気について、顔色がはえたばかりの草のような青色になっている場合は死ぬ兆候である。からたちの実のような黄色になっている場合も死ぬ兆候である。すすのような黒色になっている場合も死ぬ兆候である。くさった血のような赤色の場合も死ぬ兆候である。野ざらしの骨のような白色の場合も死ぬ兆候である。これらは死にいたる五つの顔色である。

【原文】陽不勝其陰、則五蔵気争、九竅不通。(『素問』「生気通天論」)

陽が陰に勝てないと、五臓の気があらそい、身体の九つの穴が通じなくなる。

【原文】五行者、金木水火土也。更貴更賤、以知死生、以決成敗。而定五蔵之気、間甚之時、死生之期也。(『素問』「蔵気法時論」)

五行とは、金・木・水・火・土のことである。これらの優劣のちがいによって、死・生を知り、成功・失敗を決めることができる。そしてまた五臓の気の安定する時、不安定な時、それに死生の時期を定めているのである。

【原文】五蔵受気於其所生、伝之於其所勝。気舎於其所生、死於其所不勝。(『素問』「玉機真蔵論」)

五臓は気を、その〔気の〕生じたところから受け、五行相克にしたがってそれをつたえていく。気が病気の生じたところにとどまれば、五行相克の順序にしたがえないので死ぬのである。

【原文】五蔵之気己絶於内、而用鍼者反実其外、是謂重竭。重竭必死、其死也静。治之者、輒反其気、敗腋与膺。五蔵之気己絶於外、而用鍼者反実其内。是謂逆厥。逆厥則必死、其死也燥。治之者、反取四末。(『霊枢』「九鍼十二原」)

五臓の気がすでに体内で絶えている場合に、鍼をもちいるのもが反対にその体表の部分を実にすると、これを重竭〔つきている気をさらにつきさせてしまうこと〕という。重竭してしまうとかならす死んでしまい、素の死にかたは静である。これをなおすには、反対にわきとひじから気をとりのぞいてやるのである。五臓の気がすでに体表で絶えているならば、鍼をもちいるものが反対に体内を実してしまう。これを逆厥というのである。逆厥してしまうとかならず死んでしまい、その死にかたは躁である。これをなおすには、反対に四肢から気をとりのぞいてやるのである。

【解説】
五臓の気とは、心・肝・脾・肺・腎の気の総称である。五臓の気という場合、それは六腑も合わせている。五とは「五行」の数に合わせたものであって、五臓の気は、その生理的活動や病理変化などの面においても、五行の相生・相克などの法則にしたがっているとされる。
 いわゆる臓気とは、たんに機能的概念にとどまるものではなく、より重要なことはそれが物質的概念だということである。しかし、歴史条件の制約によって、古代の人々は、人体内の臓器のミクロ的な生理活動と物質的基礎とを知ることができなかった。

しかし「その用〔機能〕によって、体〔実体〕があることを知る」ことはできたのである。このことは理解できることであろう。ある臓器には、その他の臓器と区別される特殊な機能がそなわっており、それはその臓の気自体の物質が決定しているのである。世界には、物質のない機能は存在しないし、機能のない物質も存在しない。だから、ただ臓の気を機能的活動とのみ理解することは、二千年来の医学理論と実践に一致しないのである。
人体は一個の有機的全体であり、臓と臓、臓と腑、腑と腑の間には、生理的・病理的に密接な関係がある。内臓と口・目・舌・鼻・耳、及び肉・筋・脈・皮膚・骨などの五官・五体には、相互に対応関係がある。五臓の変化は、これらの器官や体表の組織を通じて外に反映する。だからこれによって臓気の虚実を了解し、生死の兆候を予知することができるのである。

1.心気(小腸気)
【原文】心蔵脈、脈舎神。心気居則悲、実則笑不休。(『霊枢』「本神」)

心は脈を蔵しており、脈は神気をやどしている。心気が虚になると悲しくなり、充実しすぎると笑いがとまらなくなる。

【原文】所以任物者謂之心。・・・・・・心怵惕思慮則傷神。神傷則恐倶自失。破□脱肉、毛悴色夭、死於冬。(『霊枢』「本神」)

物をつかさどるものを心という。・・・・・心になやむことがあると神気を傷つける。神気が傷つくと恐怖心がおこり自失することがある。そして脂肪がやぶれて肉がそげ落ち、毛のつやがなくなり、顔色が悪くなって冬になると死ぬのである。

【原文】心気通於舌、心和則舌能知五味矣(『霊枢』「脈度」)

心気は舌に通じており、心が安定すれば舌も五味を知覚することができる。

【原文】六十歳、心気始衰、苦憂悲、血気懈惰、故好臥。(『霊枢』「天年」)

六十歳になると、心気がおとろえはじめ、非常に悲しくなり、血気もおとろえるので寝ていることを好むようになる。

【原文】夏者火始治、心気始長、脈痺気弱、陽気留溢、熱熏分腠、内至於経。故取盛経分腠。絶膚而病去者、邪居浅也。(『素問』「水熱穴論」)

夏は火気が正常にはたらく季節であり、心気がさかんになりはじめ、脈はやせて気が弱くなるので陽気がとどまってあふれ、その熱が分肉や毛穴をこがし、入りこんで経にまでいたる。したがって、その経・分肉・毛穴のさかんになっている部分をとりのぞいてやる。皮膚の部分においてとりのぞいて、病が去るのは、邪気の居場所が浅かったからである。

【原文】逆夏気則太陽不振、心気内洞。(『素問』「四気調神大論」)

夏気にさからうと、太陽経が成長のはたらきをせず、心気は体内でからっぽになる。

【原文】味過於鹹、大骨気労、短肌、心気抑。味過於甘、心気喘満、色黒、腎気不衡。(『素問』「生気通天論」)

味に鹹味が過ぎると、大骨の気が疲労し、肌が収縮して、心気の活動が抑制される。味に甘味がすぎると、心気は体内であえいで充満し、顔色が黒くなり、腎気のバランスがくずれる。

【原文】心受気於脾、伝之於肺。気舎於肝、至腎而死。・・・・・・憂則心気乗矣。(『素問』「玉機真蔵論」)

〔五行の順序が狂うと死ぬということを説明するならば〕心が邪気を脾から受けると、その邪気が肝にとどまり、それが腎にいたると死んでしまうのである。・・・・・・
憂いがあると、〔肝気が脾に移動し〕肝がからっぽになるので、そこに心気が乗じてくる。

【原文】月事不来者、胞脈閉也。胞脈者属心而絡於胞中。今気上迫肺、心気不得不通。故月事不来也。(『素問』「評熱病論」)

月経がないのは、胞脈が閉じるからである。胞脈は心に属して子宮に連絡している。いま、気がのぼって肺にせまると、心気がくだって〔子宮に〕通じることができなくなる。したがって月経がなくなるのである。

【原文】心気熱、則下脈厥而上、上則下脈虚、虚則生脈痿、枢折挈、脛縦而不任地也。(『素問』「痿論」)

心気が熱をもつと、下半身の脈がのぼせて上昇し、上昇すると下半身の脈が虚となり、虚となると脈がなえて、膝の筋がまがりおれ、脛がゆるんで立っていられなくなる。

【原文】病生在腎、名為腎風。腎風而不能食善驚、驚己心気痿者死。(『素問』「奇病論」)

病気の発生が腎にあるのを、腎風という。腎風になると、食欲がなく驚きやすくなり、その驚きやすくなる症状が終り、心気がなえてしまったものは死んでしまう。

【原文】脈至如華者、令人善恐、不欲坐臥、行立常聴。是小腸気予不足也。(『素問』「大奇論」)

脈のうちかたが花のようにかよわくなったものは、おびえやすくなって、じっとすわったり寝たりしたがらず、立ったり歩いたりする際、常に耳鳴りがする。これは小腸の気がきわめて不足しているからである。

【解説】
心気は、心の臓気である。五行では心は火に属し、季節では夏に対応する。色では赤にあたり、味では苦味を好んで鹹味をきらう。感情の場合は喜びとなり、その反映は顔にあらわれ、舌と密接な関係があり、小腸とも関連がある。
心が神を蔵し、血脈をつかさどるというのは、中国医学の伝統的な見方である。心と精神活動を関連させることになったのは、ほぼ春秋時代のことである。たとえば『詩経』「小雅・巧言」の、「他人に心があれば、私はこれをおしはかる」、『荀子』「解蔽」の「心とは、形〔体〕の君主であり、神明の主である」、『管子』
「水地」の「人は・・・・・・生まれると、目でみて、耳できき、心で考える」などがそれである。『内経』は心と精神的思惟との関係をより系統的に論じ、心を主宰とする、五臓と密接に関連しあう全体観を形成しているのである。

英・独・露・日の諸国は、十五世紀以前には、みな同じように、心臓は人間の思惟をつかさどるものと考えていた。たとえば、アリストテレスやプラトンなどは、みな精神的能力は心臓にやどると考えており、脳はたんに人体の冷却装置とされていた。『内経』の中には、「脳」についての記述はあるが、しかし脳と思惟との関係とにはいたっていない。最初に脳に思惟のはたらきがそなわっていることを示したのは李時珍〔1518-1593〕で、「脳は元神の府である」としている。その後、李梃〔16世紀ごろ〕は血肉の心と、神明の心とについて論述し、心が神明をつかさどることと、血脈をつかさどる機能とは、別の組織・器官のはたらきとみていた。

清代の王清任〔1768-1831〕は、「霊感や記憶力は、心にあるのではなく脳にある」の説を提起した。このように、精神活動の発生部位に対する中国医学の考えかたは、しだいに深められていく認識の過程をもつものであった。
心と血脈との関係は、『内経』がはじめて唱えたものである。そえは、血液が身体を循環するのは、おもに心気のおしだすはたらきによるものと考えていた。血液の循環と関連するものにはその他のものもあり、肺は百脈をあつめ、脾は血をコントロールし血を生み、肝は血を貯蔵し、腎は静を貯蔵して血を変化させるものだった。このように、五臓は共同して血液の生成・運行・貯蔵・調節のはたらきをおこなっているのであるが、ただそれぞれに持場があるということなのであった。

2.肺気(大腸気)
【原文】肺蔵気、気舎魄。肺気虚、則鼻塞不利少気。実則喘喝胸盈仰息。(『霊枢』「本神」)

肺は気を貯蔵詩、気は魄にやどしている。肺気が虚になると鼻がふさがってとおりが悪くなり、気は少なくなる。肺気はみちすぎると、せきが出て胸がいっぱいになり、上をむいて息をするようになる。

【原文】肺気通於鼻、肺和則鼻能知臭香矣。(『霊枢』「脈度」)

肺気は鼻に通じており、肺が安定すれば、鼻はにおいを感ずることができる。

【原文】太陰者、行気温於皮毛者也。故気不栄則皮毛焦。皮毛焦則津液去皮節。津液去皮節者則爪枯毛折。(『霊枢』「経脈」)

太陰〔脈をさす―編者〕は、気をめぐらせて皮膚や体毛を適温にする。だから、気がさかんにならないと皮膚や体毛がしおれやつれる。皮膚や体毛がしおれやつれると、津液が皮膚と関節からにげてしまう。津液が皮膚と関節からにがてしまったものは、爪がひからび体毛もぬけおちる。

【原文】八十歳、肺気衰、魄離。故言善誤。(『霊枢』「天年」)

八十歳になると、肺気がおとろえ、魄が体からはなれる。だからしゃべることがおかしくなる。

【原文】秋三月、此謂容平。天気以急、地気以明。早臥早起。与鶏倶興、使志安寧、以緩秋刑、収斂神気、使秋気平。無外其志、使肺気清。此秋気之応、養収之道也。・・・・・・
逆秋気、則太陰不収、肺気焦満(『素問』「四気調神大論」)

秋の三ヶ月を容平という。天の気はひきしまり、地の気は草木をいろづかせる。早く寝て早くおきる。にわとりとともにおきて、志を安定させる、秋のきびしさをやわらげ、神気を集中させ、秋気をおちつかせるのである。志をあやまらぬようにして、また肺気を秋の気のごとく清くさせるのである。これが秋気への対応であり、養収の道である。・・・・・・
秋気にさからうと、太陰収斂のはたらきをしなくなり、肺気は上焦に充満してしまう。

【原文】肺受気於腎、伝之於肝、気舎於脾、至心而死。・・・・・・悲則肺気乗矣。(『素問』「玉機真蔵論」)

〔五行の順序が狂うと死ぬということを説明するなら〕肺が邪気を腎から受けるとそれを肝につたえ、その邪気が脾にとどまり、それが心にいたると死んでしまうのである。・・・・・・
悲しむと、肝が邪気を受け、そこに肺気が乗じてくるのである。

【原文】脈至如丸滑不直手。不直手者、按之不可得也、是大腸気予不足也。(『素問』「大奇論」)

脈のうちかたが、非常になめらかで手にあたらないことがある。手にあたらず、おさえても脈を感じることができないのは、大腸の気がはなはだ不足しているためである。

【解説】
肺気は肺の臓気である。五行では肺は金に属し、季節では秋に対応する。色では白にあたり、味ではから味を好んでにが味をきらう。感情の場合は悲しみとなり、その反映は体毛にあらわれ、鼻と密接な関係があり、大腸とも関連がある。

肺は気をつかさどり、呼吸をつかさどっている。『素問』「五蔵生成」葉、「さまざまの気は、すべて肺に属している」と説き、人体の気はすべて肺に支配されていると指摘している。肺気は、脾臓から送りこまれてきた飲食物の精気と呼吸の気を結合させて、のぼってのどに出て呼吸をつかさどり、くだって心脈をつらぬいて血液循環を推進している。同時に「肺は百脈をあつめ、精気を皮膚や体毛に送り出している」のである。

肺気は〔体液を〕清らかにするものであり、またおちつかせるものである。肺気は体液の清中の清である部分を全身の体表にいきわたらせる。これを、「肺はひろげ発散することを支配する」というのである。これが『内経』のいう「上焦が開き発する」の意味である。体液の清中の濁の部分は、肺気のおちつかせるはたらきを通じて腎にくだる。『内経』はこれを「水道を通しととのえる」と言い、李東垣はこれを「水の上源」といっている。

肺は精神活動とも関連がある。「肺は魄を貯蔵している」という場合の「魄」の意味は、孔穎達の疏〔『左伝』昭公七年〕では、「人間がはじめて生まれ出る時、耳や目や心のはたらき、手足の運動などが、おぎゃあという声になる。これは魄のふしぎなはたらきである」とされている。張景岳の注には「魄のはたらきは、運動機能を可能にし、痛痒の感覚は魄によって感じる」とされる。このことは、「魄」が聴覚や視覚、つめたいとかあつい、またいたいとかかゆいなどの感覚や、肢体の動作などの、人間の本能的な感覚や運動に属していることを説明している。

3.脾気(胃気)
【原文】脾蔵営、営舎意。脾気虚則四支不用、五蔵不安。実則腹脹、経溲不利。(『霊枢』「本神」)

脾は営気を蔵しており、営気は意をやどしている。脾気が虚になると、手足の自由はきかず、五臓が不安定となる。脾気がみちすぎると、腹がはり、大小便のとおりが悪くなる。

【原文】脾気通於口、脾和則口能知五穀違矣。(『霊枢』「脈度」)

脾気は口に通じており、脾が安定すれば、口も五穀〔の味〕を知ることができる。

【原文】七十歳、脾気虚、皮膚枯。(『霊枢』「天年」)

七十歳になると、脾気が虚となり、皮膚もひからびてしまう。

【原文】飲入於胃、游溢精気、上輸於脾。脾気散精、上帰於肺、通調水道、下輸膀胱。水精四布、五経並行、合於四時五蔵陰陽、揆度以為常也。(『素問』「経脈別論」)

〔水を〕のんで胃に入ると、胃はその精気をあふれ出させて、のぼって脾に送りこむ。脾気は精気を発散させ、それがのぼって肺に帰り、水道を通しととのえ、またくだって膀胱に送り出す。水の精気は、四方にひろがり、五臓の経脈と並行してすすみ、四時・五臓・陰陽と符節をあわせるので、いつもそのようすをはかっていなければならない。

【原文】脾者土也、治中央。常以四時長四蔵、各十八日寄治。不得独主於時也。脾蔵者常著胃土之精也。土者生万物而法天地。故上下至頭足。不得主時也。・・・・・・
脾与胃以膜相連耳、而能為之行其津液何也。岐伯曰、足太陰者三陰也、其脈貫胃属脾絡嗌。故太陰為之行気於三陰。陽明者表也、五蔵六府之海也、亦為行気於三陽。蔵府各気感因其経而受気於陽明。故為胃行其津液。四支不得稟水穀気、日以益衰、陰道不利、筋骨肌肉無気以生、故不用焉。(『素問』「太陰陽明論」)

脾は〔五行において〕土であり、中央をおさめている。四季を通じて他の四臓をさかんにさせているが、それぞれの季節のおわりの十八日間が、そのはたらきがさかんになるときである。だから、とくに一つの季節のみを支配するということはないのである。脾の貯蔵しているものは、つねに胃にある土の精である。土気は万物を生じて天地の形にならっている。だからのぼったりくだったりして頭から足にまで至っている。特定の季節を支配するにとどまらないのである。・・・・・・

 「脾と胃とは、膜をへだててつらなっているのに、そこを津液がめぐることができるのは、なぜか」岐伯が答える、「足の太陰経は三陰経の一つであるが、その脈は胃をつらぬいて脾に属しており、のどに連絡している。だから、太陰経はそれらのために気を三陰経にめぐらせているのである。陽明経は〔太陰経の〕表側にあり、五臓六腑をやしなう海のようなものであって、それらのために気を三陽経にめぐらせている。
臓や腑はそれぞれ、それの属する経脈のしたがって、気を陽明経から受けて入る。だから、胃のために津液をめぐらせているのである。四肢は飲食物の気をえられないと日一日とますますおとろえるというのは、陰経脈の道が通じなくなり、筋骨・肌肉が気を受けずに生じるために、はたらかなくなるからである」

【原文】脾為孤蔵、中央土以灌四傍、其太過与不及、其病皆何如。岐伯曰、太過則令人四支不拳、其不及、則令人九竅不通。名曰重強。・・・・・・脾受気於肺、伝之於腎、気舎於心、至肝而死。・・・・・・恐則脾気乗矣(『素問』「玉機真蔵論」)

「脾は孤立した臓で、中央の土に位置し、他の四つの臓に気を供給しており、その脾の脈には太過〔脈のうちかたが充実して力強い場合〕と不及〔脈のうちかたが充実しておらず弱い場合〕とがあるそうだが、その病状はどのようであるか」。岐伯が答える、「太過の場合、手足が上がらなくなり、不及の場合は体の九つの穴が通じなくなる。これを重強というのである」・・・・・・〔五行の順序が狂うと死ぬということを説明すると〕脾が邪気を肺から受けるとそれを腎につたえ、その邪気が心にやどり、それが肝にいたると死んでしまうのである。
・・・・・・恐れると、〔腎気が心に移動し〕腎がからっぽになるので脾気がそこに乗じてくる。

【原文】脾気熱、則胃乾而渇、肌肉不仁、発為肉痿。(『素問』「痿論」)

脾気が熱をもつと、胃が乾燥してのどがかわき、肌肉は麻痺して肉痿〔痿証の一つで肢体がなえて力がはいらなくなる〕をおこす。

【原文】脈浮大虚者、是脾気之外絶、去胃外帰陽明也。・・・・・・四支懈惰、此脾精之不行也。・・・・・・傷肺者、脾気不守、胃気不清、経気不為使、真蔵破決、経脈傍絶。五蔵漏泄、不衄則嘔。此二者不相類也。(『素問』「示従容論」)

脈が浮いて大いに虚となっているのは、脾気が体表で絶え、胃からさって陽明経に帰ったのである。・・・・・・手足がだるく力がはいらないのは、脾の精気がめぐらないからである。・・・・・・肺をいためたものは、脾気が守ることができず、胃気が清んでおらず、経脈の気がめぐらないために、肺がくずれて経脈が絶えてしまったのである。このため五臓の気があふれでて、鼻血が出るか、そうでなければ吐血する。このように、脾をいためるものと肺をいためるものの病状は異なっているのである。

【原文】味過於酸、肝気以津、脾気乃絶。・・・・・・味過於苦、脾気不濡、胃気乃厚。(『素問』「生気通天論」)

酸味が過剰であると、肝に津液があふれ、脾気は絶えてしまう。・・・・・・苦味が過剰であると、脾気がうるおわず、胃気が強くなる。

【原文】胃為五蔵六府之海。其清気上注於肺、肺気従太陰而行之。其行也、以息往来。故人一呼、脈再動、一吸脈亦再動。呼吸不己、故動而不止。・・・・・・
胃気上注於肺、其悍気上衝頭者、循咽、上走空狂竅、循眼系、入絡脳、出□、下客主人、循牙車、合陽明、□下人迎。此胃気別走於陽明者也。(『霊枢』「動輸」)

胃は五臓六腑をやしなう海のようなものである。その清んだ気はのぼって肺に注ぎ、肺気は太陰経にそってめぐる。そのめぐりかたは、呼吸にしたがって往来する。だから、人が一度息を吐くと、脈は二度動き、一度息を吸うと脈がまた二度動くのである。呼吸がとまらなければ脈も動いてとまらないのである。・・・・・・

胃気はのぼって肺にそそぎ、その中の活発な気はさらにのぼって頭につきあたるが、それはのどにそってのぼり、耳目鼻口をめぐり、目から脳にはいって額に出て、客主人〔兪穴の名、ほお骨あたり〕にくだり、牙車〔兪穴の名、あごのあたり〕をめぐって、陽明経にであい、いっしょになって人迎〔のどぼとけをはさんで両側にある兪穴〕にくだる。これが、胃気がわかれて陽明経をめぐるときの経路である。

【原文】穀入於胃、胃気上注於肺(『霊枢』「口問」)

食物が胃にはいると、胃気がのぼって肺にそそぐ。

【原文】平人之常気稟於胃。胃者平人之常気也。人無胃気曰逆、逆者死。春胃微弦曰平。弦多胃少曰肝病。但弦無胃曰死。胃而有毛曰秋病、毛甚曰今病。蔵真散於肝、肝蔵筋膜之気也。・・・・・・人以水穀為本、故人絶水穀則死、脈無胃気亦死。所謂無胃気者、但得真蔵脈不得胃気也。所謂脈不得胃気者、肝不弦腎不石也。(『素問』「平人気象論」)

健常者は、平常は気を胃から受ける。胃気は健常者の平常な気なのである。人で胃気がないのを「逆」といい、「逆」であるものは死ぬ。春に胃がかすかにはるようであるのは平常である。はりがつよくて胃気が少ないのは肝の病である。ただし、はるのみで胃気がないのは死脈である。胃に毛脈〔かすかな脈〕があるのは秋病といい、毛脈がひどくなっているものは、ただちに発病する。〔胃は〕真気を蔵して肝に発散し、肝は筋膜の気を蔵している。・・・・・・

人は飲食物を生命の根本としているため、飲食物をたてば死ぬのであり、脈に胃気がなくてもまた死ぬのである。胃気がないというのは、ただ真臓脈〔五臓の気がおとろえるときにあらわれる脈の症状〕のみがあらわれて。胃気を得ていないのである。脈に胃気を得ないというのは、肝がはっておらず、腎に石脈の症がみえないことである。

【原文】五蔵者皆稟気於胃。胃者五蔵之本也。蔵気者、不能自致於手太陰、必因於胃気、乃至於手太陰也。故五蔵各以其時、自為而至於手太陰也。故邪気勝者、精気衰也、故病甚者、胃気不能与之倶至於手太陰、故真蔵之気独見。独見者病勝蔵也、故曰死。(『素問』「玉機真蔵論」)

五臓はすべて気を胃から受けている。胃は五臓をやしなう根本なのである。臓気は、それ自体で手の太陰経にやってくることはできず、かならず胃気によって、手の太陰経にいたるのである。五臓〔の気〕はそれぞれ対応する季節に応じて、手の太陰経にいたるものである。だから、邪気がまさったものは精気がおとろえ、病がひどいものは、胃気が精気といっしょに手の太陰経にいたることができず、そのため、真臓脈の気だけがあらわれる。真臓脈の気だけがあらわれたものは、病が臓にまさったのであるから、死ぬのである。

【原文】胃気逆上、則胃脘寒、故不嗜食也。(『霊枢』「大惑論」)

胃気が逆行してのぼると、胃ぶくろがひえて食欲がなくなる。

【原文】邪在胆、逆在胃、胆液泄則口苦、胃気逆則嘔苦。故曰嘔胆。取三里以下胃気逆。則刺少陽血絡以閉胆逆。却調其虚実以去其邪。(『霊枢』「四時気」)

邪気が胆にあり、〔気が〕胃に逆行して、胆汁が分泌されると口がにがくなり、胃気が逆行するとにがい水をはく。だから嘔胆というのである。この場合は足の三里に取穴して胃気の逆にのぼるのをくだす。そこで足の少陽経の血絡に鍼を刺して胆汁の逆行するのをとめてやる。その虚と実にしたがって気を調和して、その病邪をとりさってやるのである。

【原文】陽明者胃脈也。胃者六府之海、其気亦下行。陽明逆不得従其道。故不得臥也。下経曰、胃不和則臥不安、此之謂也。(『素問』「逆調論」)

 陽明経は胃の脈である。胃は六腑の海であり、その気もくだりめぐっている。陽明経が逆行すると、気が通路にそってめぐることができなくなる。だから横になることができないのである。『下経』〔上古の医書〕に、「胃のぐあいが悪いと、寝ていてもやすまらない」というのは、このことである。

【解説】
 脾気とは、脾の臓気である。五行では土に属し、季節では長夏に対応する。色では黄色に対応し、味では甘味を好んで酸味をきらい、乾燥をこのんでしめりけをきらう。感情の場合は、思いとなり、その反映は唇にあらわれる。口と密接な関係があり、胃ともかかわりあう。

 脾の運搬・変化のはたらきには二つのものがある。一つは飲食物のエッセンスを変化させ運搬することである。脾は胃で消化させた物を吸収死、心や肺に送り出す。経脈を通じて五臓のうちに調和し、六腑のうちにそそぎひろがって、手足にひろげる。第二は、水分を変化させ運搬することである。脾の土のはたらきは、水邪をおさえることである。肺は水分の源流であり、腎の土のはたらきは、水邪をおさえることである。

肺は水分の源流であり、腎は水の臓であって水分を支配し、脾は中流の砥柱〔ささえるもの〕である。これら肺・腎・脾の三つの臓は共同して体内の水分の代謝のプロセスを完成するものであるが、とりわけ脾葉重要な位置をしめている。脾が湿気を運搬せず、体内の水分がとどこおると、水腫がおこり、腹がはってふくれるなどの症状が起こる。だから、『素問』「至真要大論」では「さまざまの湿気による癰や膨れは、みな脾に属する」といっている。

脾葉飲食物のエッセンスを送り出し、五臓六腑をやしなうことができるので、李中梓はこれを「肉体保持のみなもと」といっている。彼は「いったん生まれたならば、かならず食物の気に依存しなければならない。食物は胃にはいると、六腑のうちにそそぎひろがって気がいたり、五臓にうちで調和して、血を生む。だから、人はこれに依存して生命を保持するのである。そこで肉体保持の源は脾にあるというのである」といっている。

有名な金・元時代の医学者である李東垣〔1180-1251〕は、脾胃の気を明らかにしたことによって有名になった人である。彼は「体内で脾気をそこなうと、百病がおこる」との説を提起し、独創的な理論体系を形成した。葉天士はこれに対して「脾胃の論については東垣よりくわしいものはない。しかし、おそらく東垣の方法は脾をなおすのにくわしいだけであって、胃をなおすことについては簡略である」と批判している。李氏は、脾胃の陽を偏重して、つねに辛燥・昇発の薬をもちいていた。葉氏は東垣にならったが、「胃の陽をやしなう」という法則をたてて、東垣におよばなかったところをおぎなったのである。

 胃気とはひろく胃腸の消化のはたらきをさす。脾と胃とは腹部の中焦に共存しており、腹をへだててつらなっている。胃は収納して脾は変化させ、胃はくだして脾はのぼらせる。両者の関係は非常に密接である。胃は飲食物の海であり、飲食物のエッセンスを消化し、それを五臓六腑に供給しているので、あた「五臓六腑の海」「五臓の本」といわれている。『内経』は胃気を重視して、人に胃気があれば生きられるし、なければ死ぬとしている。胃気は体表に反映するので、症状を具体的にみることができる。脈の打ち方が、浮脈〔浅い脈〕でもなく沈脈〔深い脈〕でもなく、はやくもなくおそくもなくて、おちついてリズムが一定であることによって、「胃」があるのだとするのである。

舌のこけは、胃気がのぼってむれて生じたものであり、健常者はわずかにうすく白いこけがあり、湿度がちょうどよい。なめらかでもなく、かわいてもいない状態が、胃気の正常なあらわれかたである。脈のようすと舌のこけを観察することによって、胃気の有無を知ることができ、それは疾病の診断・治療と予後の判定に役立つのである。

4.肝気(胆気)
【原文】肝蔵血、血舎魂。肝気虚則恐、実則怒。(『霊枢』「本神」)

肝は血を貯蔵しており、血は魂をやどしている。肝気が虚であると恐怖心がおこり、実すると怒るようになる。

【原文】肝気通於目、肝和則目能弁五色矣。(『霊枢』「脈度」)

肝気は目に通じており、肝が安定すれば、目も五色を見分けることができる。

【原文】五十歳、肝気始衰、肝葉始薄、胆汁始滅。目始不明。(『霊枢』「天年」)

五十歳になると、肝気がおとろえはじめ、肝葉がうすくなりはじめ、胆汁がなくなりはじめる。そこで視力もよわってくる。

【原文】春者木始治、肝気始生。肝気急、其風疾。経脈常深、其気少、不能深入。故取絡脈分肉間。(『素問』「水熱穴論」)

春は、〔五行の〕木が治めはじめるときであり、肝気が生じはじめるときである。肝気は急であり、春にはその風は疾風である。経脈はいつも深いがそこを通る気が少ないため、深くはいることができない。だから絡脈や分肉の間に兪穴をとるのである。

【原文】逆春気則少陽不生、肝気内変。(『素問』「四気調神大論」)

春気にさからうと、少陽経が生みだすはたらきをせず、肝気が体内で変化する。

【原文】味過於酸、肝気以津、脾気乃絶。(『素問』「生気通天論」)

酸味が過剰であると、肝に津液があふれ、脾気が絶えてしまう。

【原文】肝受気於心、伝之於脾。気舎於腎、至肺而死。・・・・・・怒則肝気乗矣。(『素問』「玉機真蔵論」)

〔五行の順序が狂うと死ぬということを説明すると〕肝が邪気を心から受けると、それを脾につたえる。その邪気が腎にやどり、肺にいたると死んでしまうのである。・・・・・・
怒ると〔脾気が移動して脾がからっぽになるので〕、そこに肝気が乗じてくる。

【原文】肝気熱、則胆泄口苦筋膜乾。筋膜乾則筋急而攣、発為筋痿。(『素問』「痿論」)

肝気が熱をもつと、胆汁がもれて、口はにがくなり筋膜がかわいてしまう。筋膜がかわいてしまうと、筋がひきつってけいれんし、筋の痿をおこす。

【原文】脈至如散葉、是肝気予虚也、木葉落而死。・・・・・・脈至如横格、是胆気予不足也。(『素問』「大奇論」)

脈のうちかたがちりぢりの木の葉のようであるのは、肝気がきわめて不足しているのであり、木の葉がおちる秋に死んでしまう。・・・・・・脈のうちかたが木のように長くてかたいものは、胆気がきわめて不足しているのである。

【解説】
肝気とは、肝の臓気である。五行では木に属し、季節では春に対応する。色では青色に対応し、味では酸味をこのんで辛味をきらう。感情の場合は怒りとなり、その反映は爪にあらわれる。目と密接な関係があり、胆ともかかわりあっている。
『素問』「刺禁論」には「肝は左に生じ、肺は右に蔵す」とあるが、これは肝と肺の二臓の気の陰陽昇降の機序についていったものである。元代の滑伯仁〔14世紀ころ〕は『十四経発揮』〔1341〕において「肝の臓は右の肋骨の内側で、右の腎臓の前にあり、胃とともに脊椎の第九椎にくっついている」と述べている。この滑氏の論は、現代医学における肝臓の解剖学的位置と基本的に一致している。
 
肝は血を貯蔵するとは、主に肝が血液を貯蔵したり、その量を調節するはたらきをもっていることをさしている。だから王冰の注では「肝は血を貯蔵し心は血をめぐらせる。人が動いていれば、血はさまざまの経脈にめぐり、人が静かであれば、血は肝臓に帰ってくる。これはなぜかというと、肝が血をつかさどる海だからである」〔『素問』「五蔵生成」〕というのであるが、これからして血液の流れが肝臓で貯蔵・調節されるプロセスは、心臓の血をめぐらせる作用の関与によって実現していることがわかる。

肝が疏通と排泄をつかさどることについては、『内経』の中には明確な記載がない。『素問』「六元正紀大論」には、「木気が十分になったら、気持ちはのびやかになってなおる」といっているが、これはアナロジーの不法をもちいて、肝がゆったりとのびやかなることをこのむ性質を持つことを説明するものである。肝が疏通と排泄とをつかさどることについては、おもにつぎの四点がふくまれている。

1・肝は全身の気の疏通と排泄の機序をつかさどっている。唐宗海〔1862-1918〕葉、「肝は五行では木に属する。木気がおだやかにのびやかで、とどまりふさがっていなければ、血液はのびのびとすることができる」と説いている。これは肝臓の、気の機序に対する、調節のはたらきを説明するものです。

2.消化吸収の促進。肝の疏通と排泄と、消化吸収を促進する作用は、一面では、肝臓が胆汁を排泄する機能にあらわれるし、もう一面では、脾の土のはたらきが、肝の木のはたらきである疏通と排泄によって、はじめて変化・運搬の役目を完成することにあらわれている。だから唐宗海は、このことを「木の性質は、疏通と排泄をつかさどるので、飲食物の気は、胃に入ると、肝の木の気にたよって疏通・排泄される。このように飲食物は変化するのである」といっている。

3.感情や意志の活動をつかさどる「肝は魂をつかさどって」おり、「肝はのびやかであることをこのみ、憂鬱なことをきらう」のである。肝気の疏通と排泄が正常であると、気・血はやわらぎ安定し、精神は愉快になる。もし、心情が憂鬱であったり、あるいははげしく怒ったりして肝を傷つけてしまうと、結局肝の疏通と排泄のはたらきが失調することになって、一連の感情にかかわる症状を生ずることになるのである。

4.生殖のはたらきに関連がある。精液の排泄と肝の疏通と排泄の作用には関係がある。朱丹渓は、「閉じて蔵することを支配するのは腎であり、疏通と排泄を支配するのは肝である」と説いている。このことは、肝と腎の二臓が精液を調節するはたらきをもつことを説明している。
臨床上の遺精・早漏の症状も、しばしば肝臓を治療することによってなおすことができる。また「衝・任の脈は肝・腎の二臓に隷属して」いるとされるが、肝の疏通と排泄は月経の周期にも直接影響がある。肝がのびやかでなくなると、衝・任の脈の貯蔵と流出のはたらきが狂い、月経は順調でなくなる。したがって、月経の不調・不妊症などもやはり肝に原因をもとめるのである。

肝気とは、また病理学上の名詞ともされる。それによって、肝臓の気の機序が鬱結することによって生まれる一連の症状をあらわすのである。これは、もっとも古くは『史記』「扁鵲倉公列伝」にみえている。そこには「わたくし淳于意がその脈をみたところ、肝気を感じたのであります。肝気は濁っており静かでありました。これは体内の器官の病気であります」とある。臨床上のいわゆる「肝気鬱結」とか「肝気犯脾」「肝気上逆」などの症状は、すべて「肝気」の病状の名称なのである。

5.腎気(膀胱気)
【原文】腎蔵精、精舎志。腎気虚則厥、実則脹、五蔵不安。(『霊枢』「本神」)

腎は精を貯蔵し、精は志をやどしている。腎気が虚になると手足がひえ、実するとむくみが生じ、五臓が不安定になる。

【原文】腎気通於耳、腎和則耳能聞五音矣。(『霊枢』「脈度」)

腎気は耳に通じており、腎が安定すると、耳は五音を聞きわけることができる。

【原文】九十歳、腎気焦、四蔵経脈空虚。(『霊枢』「天年」)

九十歳になると、腎気はやけこげかれつき、他の四臓の経脈はからっぽになってしまう。

【原文】女子七歳、腎気盛、歯更髪長。二七而天発至、任脈通、太衝脈盛。月事以時下、故有子。三七、腎気平均、故真牙生而長極。・・・・・・丈夫八歳、腎気実、髪長歯更。二八、腎気盛、天発至、精気溢写、陰陽和、故能有子。三八、腎気平均、筋骨経勁強、故真牙生而長極。四八、筋骨隆盛、肌内満壮。
五八、腎気衰、髪堕歯槁。六八、陽気衰竭於上、面焦、髪鬢頒白。七八、肝気衰、筋不能動、天発竭、精少、腎蔵衰、形体皆極。八八、則歯髪去。腎者主水、受五蔵六府之精而蔵之。故五蔵盛、乃能写。・・・・・・有其年己老而有子者何也。岐伯曰、此其天寿過度、気脈常通、而腎気有余也(『素問』「上古天真論」)

女性は、七歳になると腎気がさかんになり、歯がはえかわり髪も長くなる。十四歳になると、生殖能力が充実し、任脈が通じ太衝脈もさかんになる。月経もはじまり、したがって出産もできる。二十一歳になると、腎気が安定してゆきわたり、おやしらずが生えて成長もきわまる。・・・・・・男性は八歳になると、腎気が充実し、髪が長くなり歯がはえかわる。十六歳になると、腎気がさかんになり、精気が充実して精気があふれでるので、陰陽相和して、子供をつくることが可能となる

。二十四歳になると、腎気が安定していきわたり、筋骨がたくましくなり、おやしらずがはえて成長もきわまる。三十二歳になると、筋骨は隆々として、肌肉はみちわたって壮健となる。四十歳になると、腎気がおとろえ、髪はぬけおちて、歯ももろくなる。四十八歳になると、陽気が上半身でおとろえてつきてくるので、顔にしわが出て頭髪にも白いものがまじってくる。五十六歳になると、肝気がおとろえ、筋をうごかすことができなくなり、精力もつきて精気が減少し、腎臓がおとろえて肉体が限界となる。六十四歳になると、歯と髪はすべて抜け落ちてしまう。腎は水気をつかさどり、五臓六腑の精をうけてそれを蔵している。

だから五臓がさかんであれば、精気を瀉することもできるのである。・・・・・・「年老いてもなお子供を作れるのはどういうことか」。岐伯が答える、「それは、年齢のわりには精力があまっているのであり、気脈も常に通じていれ、腎気に余りがあるからである」

【原文】逆冬通、則少陰不蔵、腎気独沈。(『素問』「四気調神大論」)

冬気にさからうと、少陰経は蔵するはたらきをしなくなり、腎気だけが沈殿してしまう。

【原文】因而強力、腎気乃傷、高骨乃壊。・・・・・・味過於鹹、大骨気労、短肌、心気抑。味過於甘、心気喘満、色黒、腎気不衡。(『素問』「生気通天論」)

無理な性生活をすると、腎気が傷ついてしまい〔骨髄の気が枯れて〕腰の骨がくさってしまう。・・・・・・
鹹味が過剰であると、大骨の気がつかれ、肌が収縮し、心気の活動が抑制される。甘味が過剰であると、心気はおえいで充満し、顔色が黒くなり、腎気のバランスがくずれる。

腎受気於肝、伝之於心、気舎於肺、至脾而死。・・・・・・因而喜大虚則腎気乗矣。(『素問』「玉機真蔵論」)

〔五行の順序が狂うと死ぬということを説明すると〕腎が邪気を肝から受けると、それを心に伝え、その邪気は肺にとどまるが、さらに脾に至ると死んでしまうのである。・・・・・・
そこで喜ぶと、〔心気が肺に移動して〕心がきわめて虚となって、そこに腎気が乗じてくる。

【原文】人有身寒、湯火不能熱、厚衣不能温、然不凍慄、是為何病。岐伯曰、是人者、素腎気勝。以水為事、太陽気衰、腎脂枯不長。一水不能勝両火。腎者水也。而生於骨、腎不生則髄不能満。故寒甚至骨也。所以不能凍慄者、肝一陽也、心二陽也、腎孤蔵也、一水不能勝二火。腎者水蔵、主津液、主臥与喘也。(『素問』「逆調論」)

「寒気があって、湯や火でもあたたかくならず、厚着してもあたたまらないのに、こごえふるえない病気はなんであろうか」。岐伯が答える、「この人は、もともと腎気がさかんなのである。欲望をほしいままにしてので、太陽経の気がおとろえ、腎の脂肪がかれつきてさかんでなくなったのである。一つの水〔陰〕の臓器は二つの火〔陽〕の臓器には勝つことができない。腎は水気〔体液〕をつかさどっている。〔髄液は〕骨から生じるが、骨が生ずるはたらきをしないと、髄液はみちることができない。

だから寒気がひどくなって骨にまでいたるほどになるのである。こごえふるえないわけは、肝は一陽の臓器で、心は二陽の臓器であるのに対して、腎は孤立した臓器であるので、一つの水〔陰〕の臓器は二つの火〔陽〕の臓器には勝てないからである。だからこごえふるえないのである。この病名は骨痿といい、〔骨髄が満ちずに筋が収縮するので〕関節が引きつるのである。・・・・・・腎は水の臓であり、津液を支配し、寝ることとあえぐことをつかさどっているのである」

【原文】腎気熱、則腰脊不拳、骨枯而髄減、発為骨痿。(『素問』「痿論」)

腎気が熱をもつと、腰と背骨があがらなくなり、骨はかれつきて髄液は減少し、骨痿を発する。

【原文】浮而弦者、是腎不足也。沈而石者、是腎気内著也。怯然少気者、是水道不行、形気消素也。欬嗽煩寃者、是腎気之逆也。(『素問』「示従容論」)

脈が浮脈で弦のようにはっているものは、腎気が不足しているのである。脈が沈脈で石のようにかたくなっているものは、腎気が体内でしぶりついてめぐらないものである。精神が過敏で呼吸が少ないものは〔腎気が不足しているために〕体液の通路がめぐりにくく、体と気とが消耗しているのである。咳がでてわずらいもだえているものは、腎気が逆行しているのである。

【原文】脈至如省客、省客者脈塞而鼓。是腎気予不足也。(『素問』「大奇論」)

脈のうちかたが、まれにやってくる客のようである場合について、まれにやってくる客のようであるというのは、脈がふさがってとまり、まためぐってうつという状態である。これは、腎気がたいへん不足しているのである。

【原文】暴癰筋□、随分而痛、魄汗不尽、胞気不足、治在経兪。(『素問』「通評虚実論」)

急激な悪性のはれものができて筋肉がちぢんでしまい、分肉にそっていたんで汗がとまらず、胞気も不足している場合は、経脈の兪穴において治療する。

【解説】
腎気は、腎の臓気であり、腎陰と腎陽の二つの性質を持っている。腎陰はまた「元陰」「真陰」ともよばれ、陰液の根本であり、うるおしやしなうはたらきをもっている。腎陽もまた「元陽」「真陽」とよばれ、陽気の根本で、あたためそだてるはたらきがある。
腎は水の臓で、五行では体内において相火〔命門に起源する火気で宰相の火。肝・胆・三焦をめぐっている〕によりそい、季節では冬に対応する。色では黒に対応し、味では鹹味をこのんで甘味をきらう。感情の場合は恐れとなり、その反映は髪にあらわれる。耳と前後の二陰に密接な関係があり、膀胱ともかかわりあっている。

腎は精を蔵している。「人がはじめて生まれるときには、まず精が成りたつ」のであるから、先天の精は父母より受けるものである。「腎は五臓六腑の精を受けて、これを蔵する」のであるから、後天の精は飲食物をもとにしている。先天の精は後天の精を生み、後天の精は先天の精をやしなうことにより、一定の段階に到達して、生殖の精が形成される。精は、人体を構成し、人体の生命活動を維持する重要な物質なのである。
 腎は精を蔵し、精は髄を生じ、髄は骨にみちる。『霊枢』「癰疽」には「中焦が露のように気をだし、のぼって谿・谷にそそぎ、孫脈にしみいり、津液を調和し、赤く変化して血となる」と説かれている。谿・谷は腎に属して骨に通じており、中焦で生じた飲食物の精気は、谿・谷にそそぎ、精髄にしみいって、化合して血となるのである。だから李中梓は「血の源は腎にある」と説いている。

腎は体液をつかさどっている。腎臓が体液のバランスを調節することは、主に腎陽の気化作用によっている。体液は腎陽の蒸化の作用をへて、濁った体液中の清なるものは、液体から変化して気となり、またのぼって肺にそそぐのである。一方、濁った体液中の濁なるものは、膀胱をへて体外に排出される。『素問』「水熱穴論」では、「腎は胃の関所である。関門の開閉がスムーズでなくなると、水があつまってたまるものである」と説いている。腎の気化のはたらきが正常であれば、関門の開閉は秩序だっているが、もし気化のはたらきが狂えば、関門の開閉はスムーズでなくなってしまう。そこで、体液の代謝に支障をきたすのである。

腎は気をおさめることをつかさどり、気の根本となっている。しかし、『内経』にはこれに対して明快な記述がなく、ただ一部の気逆〔気の逆上〕や喘息が腎と関係があるといっているにすぎない。『難経』は「呼気は心と肺から出て、吸気は腎と肝に入る」とか「吸気が腎にいたることができずに、肝にいたるとかえってしまう」と記述している。なお、腎の間に動く気を「呼吸の門」とすることがあるが、これは明らかに、吸入された気がかならず腎までくだり、腎気によって摂取されるという理論のことをさしているのである。

胞気とは、膀胱の気のことである。腎と膀胱とは相表裏しており、膀胱の気化作用はおもに腎陽の援助を必要としている。そこで、膀胱の虚や寒の症状は、多くは腎陽の不足にもとめれらるが、膀胱の湿や熱の症状は、膀胱自体の病気によるものである。


■病邪の気
病邪の気とは、人体の病理学的変化に関連する発病の原因である。風・寒・暑・湿・燥・火の六淫の気、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の気と厥気・逆気・乱気・痺気・虐気・疫気等をふくんでいる。
気は人をやしなうものだが、また人をそこなうこともある。気の発病要因には二つある。第一は病邪を刺していうものである。

たとえば、風気・寒気などである。第二には病のきっかけをさしていうものである。たとえば、肝気が脾を犯すことなどである。疾病を誘発する原因は多種多様である。たとえば気候の異常・伝染病・精神的刺激・暴飲暴食・転倒、そして刃物や昆虫・動物による外傷などである。さまざまな発病の原因が人体に作用して、一定の条件の下で病気をおこすのである。

個々の疾病には病理学的メカニズムの上でそれぞれに特殊性があるのだが、多様な発病原因をひきおこす、千差万別の病理学的変化のうちおにも、共通した一般法則があるのである。それは人体の陰陽二気の失調、正気・邪気の争以、内臓の気のはたらきの昇降不順などである。ここからも気が中国医学の病理学において、重要な地位をしめることが理解されるのである。

【原文】人有太田に十二分、小渓三百五十四名。小十二兪。此皆衛気之所留止、邪気之所客也、鍼石縁而去之。(『素問』「五蔵生成」)

人には大谷〔大経が出会うところ〕が十二部分と小渓〔小絡が出会うところ〕三百五十四の兪穴の名称がある。〔大谷・小渓の解釈と三百六十四の数に関しては異説が多い〕ここでは十二経の兪穴はのぞかれる。これらはみな衛気のとどまるところであるが、また邪気が侵入する箇所でもあるので、鍼石によってこれをとりのぞく。

【原文】凡此八虚者、皆機関之室、真気之所過、血絡之所遊。邪気悪血、固不得住留。住留則傷筋絡骨節機関、不得屈伸、故痀攣也。(『霊枢』「邪客」)

おおよそこの八虚〔左右の肘・腋・股・膕などの体のくぼみ〕はすべて関節部位であり、真気がかようところで、血絡の経過するところである。邪気や悪寒はとどまらせてはならない。もしもとどまるなら、筋・絡・骨および関節は屈身できなくなり、痙攣する。

【原文】皮毛者肺之合也。皮毛先受邪気、邪気以従其合也。(『素問』「咳論」)

皮毛は肺と連絡している。皮毛がはじめに邪気を受けると、邪気はそれにしたがって、連絡する肺に入ってゆく。

【原文】邪之客於形也、必先舎於皮毛。留而不去、入舎於孫脈。留而不去、入舎於絡脈。留而不去、入舎於経脈、内連五蔵、散於腸胃。陰陽倶感、五蔵乃傷、此邪之従皮毛而入、極於五蔵之次也。(『素問』「謬刺論」)

邪気が人体に侵入する場合、まず皮毛にとどまる。とどまって去らなければ、孫絡に侵入する。それがとどまったままならば絡脈に侵入する。それがとどまりつづければ、経脈に侵入し、五臓に連絡されて腸胃に散らばる。陰陽ともに感応しあうため、五臓はそこなわれる。これが邪気が皮毛から侵入していたる順序である。

【原文】天之邪気、感則害人五蔵。水穀之寒熱。感則害於六府。地之湿気、感則害皮肉筋脈。(『素問』「陰陽応象大論」)

天の邪気に感応すれば、人の五臓をそこなう。飲食物の寒熱に感じれば六腑をそこなう。地の湿気に感応すれば皮肉・筋・脈をそこなう。

【原文】邪之生也、或生於陽。其生於陽者、得之風雨寒暑。其生於陰者、得之飲食居処、陰陽喜怒。(『素問』「調経論」)

邪気は陰から、あるいは陽から生ずる。陽から生ずるものとは、風・雨・寒・暑から受けるもののことである。陰より生ずるものとは、飲食や住居、陰陽・喜怒の不調和によっておこるものである。

【原文】故犯賊風虚邪者、陽受之、食飲不節起居不時者、陰受之。陽受之則入六府、陰受之則入五蔵。(『素問』「太陰陽明論」)

だから賊風・虚邪に犯されるものは、陽からこれを受け、飲食起居が不節制であれば陰からこれを受けるのである。陽から受けると六腑に入り、陰から受けると五臓に入る。

【原文】不相染者、正気存内、邪不可干、避其毒気。(『素問』「刺法論」)

〔疫に〕感染しないのは、正気が内にあり、邪気が侵入せずその毒気をさけることによるのである。

【原文】邪之所湊、其気必虚。(『素問』「評熱病論」)

邪気が集まるところは、気が虚になっている。

【原文】神客者、正邪共会也。神者、正気也、客者、邪気也。在門者、邪循正気之所出入也。(『霊枢』「小鍼解」)

神客とは正気と邪気が混在することである。神とは正気のことであり、客とは邪気のことである。在門とは、邪気が正気の出入する所をめぐっていることである。

【原文】朝則人気始生、病気衰、故旦彗。日中人気長。長則勝邪、故安。夕則人気始衰、邪気始生、故加。夜半人気入蔵、邪気独居於身、故甚也。(『霊枢』「順気一日分四時」)

朝には人気が生じ始め、病気はおとろえるので、爽やかである。昼は人気が進長する。進長すれば邪気にまさるので、安らかである。夕方は人気がおとろえ始めて邪気がおこりだすので病が増加する。夜となると人気は内臓に入りこみ、邪気が身体にとどまるので、病はひどくなるのである。

【原文】春傷於風、邪気留連、乃為洞泄。夏傷於暑、秋為痎瘧。秋傷於湿、上逆而咳、発為痿厥。冬傷於寒、春必温病。(『素問』「生気通天論」)

春に風邪にかかると、邪気がとどまりつづけて、脾臓失調となる。夏まけすると秋には痎瘧になる。
秋に湿邪にそこなわれると、湿邪は逆上して咳をおこし、外に発すれば痿厥となる。冬に寒にそこなわれると、春には必ず温病になる。

【原文】虚邪者、八正之虚邪気也。正邪者、身形若用力汗出、腠理開、逢虚風。其中人也微、故莫知其情、莫見其形。(『素問』「八正神明論」)

虚邪とは八正〔正しい方向から吹く季節風〕にさからう虚邪の気である。正邪とは身体が力を出し、汗が出て毛穴が開く時に虚風にあうことである。人体に侵入することが微かなので、その病情は知ることも、見ることもできないのである。

【原文】虚邪之中身也、灑淅動形。正邪之中人也微、先見於色、不知於身。若有若無、若亡若存、有形無形、莫知其情。(『霊枢』「邪気蔵府病形」)

虚邪が身体に侵入すると悪寒がしてブルブルと震える。正邪が人に侵入するのは微かなのである。最初は顔色にあらわれて、身体にはあらわれない。あるかなきかに消えたのか、まだ存在するのか、あらわれたりなくなったりで、そのさまを知ることができない。

【原文】邪気者、虚風之賊傷人也。其中人也深、不能自去。正風者、其中人也浅、合而自去。其気来柔弱、不能勝真気、故自去。虚邪之中人也、灑淅動形、起毫毛而発腠理。・・・・・・虚邪偏容於身半、其入深、内居営衛。営衛稍衰、則真気去、邪気独留、発為偏枯。(『霊枢』「刺節真邪」)

邪気とは虚風が人を傷つけることである。人に侵入することが深いので、自然に去っては行かない。正風とは人に侵入することが浅く、真気と合すると自然に去ってしまうものである。それはその気が侵入しても、柔弱であるので真気には勝つことができず、そのため自然に去ってしまうのである。虚邪が人に侵入すると、悪寒で体がふるえ、うぶ毛からはじまって毛穴が開くようになる。・・・・・・虚邪が半身に侵入すると深部に入りこんで内なる営衛の気は次第におとろえる。すると真気は去り、邪気だけがとどまって偏枯〔半身不随〕となる。

【原文】聖人曰避虚邪之道、如避矢石。邪弗能害、此之謂也。(『霊枢』「九宮八風」)

聖人が〔太乙の日に〕虚風の邪気をさけるのは、ちょうど矢玉をさけるようである。そのため、邪気も害を与えることができない、とはこのことである。

【原文】賊風邪気之中人也、不得以時。然必因其開也。其入深、其内極病、其病人也卒暴。陰其閉也、其入浅以留、其病也徐以遅。・・・・・・
乗年之衰、逢月之空、失時之和、因為賊風所傷。是謂三虚、故論不知三虚、工反為粗。帝曰、願聞三実。少師曰、逢年之盛、遇月之満、得時之和。雖有賊風邪気、不能危之也。(『霊枢』「歳露論」)

賊風・邪気が人をおかすのは時を選ばない。しかし必ず〔毛穴の〕開きに生ずるもの0である。その入りかたが深いほど重い病気となり、その発病も急性のものとなる。〔毛穴が〕閉じているならば、賊風・邪気の入りかたも浅くとどまるだけで、発病も緩慢である。・・・・・・
その年の歳気のおとろえや、月の欠けたのにであうと、季節の気候の異常などは、賊風が人をそこなうので三虚という。だから〔病を〕論ずるのに三虚を知らなければ、治療も粗雑なものとなる・・・・・・

黄帝がたずねた、「三実とはどういうものか」と。少師が答える。「その年の歳気がさかんである時にあい、満月にあい、その季節の調和した気候を得ることである。賊風。邪気があっても危険にあうことはない」

【原文】何謂五邪。岐伯曰、病有持癰者、有容大者、有狭小者、有熱者、有寒者。是謂五邪。(『霊枢』「刺節真邪論」)

黄帝が尋ねた。「鍼刺の法に五邪というものがあると聞いたが五邪とは何であるのか」。岐伯が答えた。「病の内で癰〔急性化膿性疾患〕をもつもの、大邪をもつもの、小邪をもつもの、熱邪をもつもの、寒邪をもつもの、これを五邪という」

【原文】復熱者邪気也。汗者精気也。今汗出而輙腹熱者、是邪勝也。不能食者、精無俾也。病而留者、其寿可立而傾也。(『素問』「評熱病論」)

復熱〔くりかえす熱〕とは邪気である。汗は精気である。いま、汗が出てもすぐに発熱をくりかえすのは、これは邪気が勝っているからである。食がすすまないのは精が消化を促進しないからである。病がとどまりつづけるならば、寿命もたちまち危うくなるのである。

【原文】間日発者、由邪気内薄於五蔵、横連募原也。其道遠、其気深、其行遅、不能与衛気倶行、不得皆出。故間日乃作也。・・・・・・衛気毎至於風府、腠理乃発。発則邪気入。入則病作。(『素問』「虐論」)

〔おこりが〕日をあけておこるのは、邪気が体内の五臓にせまって募原〔膜原ともいう。横隔膜筋と胸膜の間の部位〕に横ざまにはびこるためである。その部位までに距離が遠く、邪気が深くにひそみ、そのめぐりがおそいので、衛気と同行せず病はあらわれない。だから日をおいて発作がおこるのである。・・・・・・
衛気が風府穴にあつまるごとに、毛穴が開く。毛穴が開くと、邪気が侵入する。邪気が侵入すると病がおこるのである。

【原文】是故邪気者、常随四時之気血而入客也。至其変化不可為度。然必従其経気、辟除其邪。除其邪則乱気不生。(『素問』「四時刺逆従論」)

だから邪気は、常に四時の気血にしたがって侵入するのである。その変化にいたってはとても予測することはできない。しかし、必ずその経気にしたがって邪気を除去するのである。そうすれば乱気は生ずることはない。

【原文】邪気内逆、則気為之閉塞而不行、不行則為水腸。(『霊枢』「五癃津液論」)

邪気が体内で乱れると、気は閉塞してめぐらなくなり、そうなると水腸〔水腫のこと〕となってしまう。

【原文】故刺法曰、始刺浅之、以逐邪気而来血気、後刺深之、以致陰気之邪、最後刺極深之、以下穀気。(『霊枢』「官鍼」)

だから刺法に、はじめに刺すときには浅くして邪気をはらい、血気を誘導し、その後に深く刺し、陰気の邪を誘導し、最後にもっとも深く刺して穀気を通わせる、というのである。

【解説】
邪気は人を発病させる原因である。邪とは正と反対のことである。疾病の発生と進行は、邪と正の争いの反映である。中国医学の発病学では正気を重視する。「正気が体内にあれば、邪気が侵入しない」という言葉は、同時に、もしなんらかの原因で人体の正気が不足すれば、邪気がその虚に乗じて発病するということを意味するとみなされた。
『内経』は、外感の邪気の侵入経路と伝播のプロセス、ならびに停留部位について詳細に論じている。そこでは、皮毛・毛穴は外邪侵入の門戸であり、皮毛から絡脈・経脈、そして臓腑にいたるものとみ、邪気は臓腑・谿谷・募原などの個所にとどまるものであると強調する。

『内経』では病気の原因を、陰陽の二つの種類にまとめている。『素問』「太陰陽明論」には、「だから賊風をこうむる場合には、体表からこれを受ける。飲食起居が不節制であれば、体内からこれを受けるのである。体表から受ければ六腑に入り、体内から受けるならば五臓に侵入する」と説かれている。しかし『内経』には数篇に「三因」についての論述がある。例えば、『霊枢』の「百病始生」には「喜・怒に節度がなければ臓がそこなわれ、病は体内におこる。清湿の気は、虚をおそうので、病は下半身からおこる。

風雨の気が虚をおそうと、上半身に病がおこる。以上を三部というのである」と記されている。この三因は張仲景〔2-3世紀半ばの医家〕の三因とはやや相違がある。張氏は「一つは、経絡が邪気を受け、臓気に侵入するもので、体内を原因とする。二つは四肢と九竅に血脈がつたえあうが、ふさがって通じなくなるもので、体表の皮膚から入るもの。三つは室内で、また刃物や昆虫や獣などにそこなわれるものである」と説いている。

宋代の陳無択は仲景の説を発展させた王冰〔唐代の医家、『内経素問』の注釈家〕は有・無・運気・発病などの概念をもちいて「四因説」を立てた。彼は「そもそも発病には四つの種類がある。第一は、はじめに気が動くことにより病が体内に生ずるもの。第二は気の動きによらず、体外におこるもの。第三は、はじめに気の動きによって病が体内に生ずるもの(編著注――体外に、であろう)、第四には、気の動きによらないで、病が外に生ずるもの(編著注――体内に、であろう)」と述べている。この説は後世の張潔古・張子和などの人々から全面的に称賛を受けた。

『内経』には、また五邪の説がある。癰邪・大邪(実邪)・小邪(虚邪)・熱邪・寒邪を五邪という。だが『難経』の「五邪論」に述べられているほどにはたちいったものではない。『難経』「五十難」の中で、「後からやってくるものを虚邪となし、前からやってくるものを実邪とする。体が抵抗できないほどの病の原因を賊邪といい、抵抗できるくらいのものを微邪という。みずから病むものを正邪とする。どのような病がそうであるかといえば、たとえば心の病で、風にあたって受けるものを虚邪といい、暑さにまけて受けるものを正邪という。

暴飲暴食によって受けるものを実邪とする。寒さにそこなわれるものを微邪と言い、湿にあたって受けるものを賊邪というのである」と説かれている。これは『内経』の五邪の思想を一歩進めたものである。『内経』は虚邪の発病作用をもっとも重視し、予防法をしめし、病気を未然に防ぐことに重大な価値をみとめている。

「伏邪」の説は『内経』に起源があり、後世にいっそう明らかにされたものである。王叔和〔三世紀の医家〕は、「邪は皮膚に潜伏する」と述べ巣元方〔隋の医家〕は「邪歯肌骨に潜伏する」と説き柳宝詒は、「邪は少陰に潜伏する」といい、呉又可は「邪は募原に潜伏する」と説明している。愈根初は諸説を総合し、伏邪は虚・実の二つに分けられると総括して、「実邪は多く少陽の募原におこり、虚邪は多く少陰の血分陰分に生ずる」と述べたが「伏邪」の有無については今でも説がわかれ、意見は一致しないので、いっそうの研究がまたれるのである。


■営気・衛気
【原文】栄者、水穀之精気也。和調於五蔵、灑調於五蔵、灑陳於六府、乃能入於脈也。故循脈上下、貫五蔵、絡六府也。衛者、水穀之悍気、其気慓疾滑利、不能入於脈也。故循皮膚之中。分肉之間、薫於盲膜、散於胸腹。(『素問』「痺論」)

営とは、飲食物の精気である。五蔵を調和させ、六腑にそそぎひろがって、脈の中に入るものである。それゆえに、脈に沿って上下し、五蔵をつらぬいて六腑をめぐっている。衛とは、飲食物の悍気〔活発な気〕であり、その気はかるがるとすばやくスムーズに動き、脈に入らない。だから皮膚の中、肉と肉のわかれめにめぐり、盲膜〔横隔膜の上部〕にくすぶり、胸や腹に散るのである。

【原文】人受気於穀。穀入於胃、以伝於肺。五蔵六府、皆以受気。其清者為営、濁者為衛。営在脈中、衛在脈外。営周不休、五十而復大会。陰陽相貫、如環無端。・・・・・・
営出於中焦、衛出於下焦。・・・・・・営衛者精気也。(『霊枢』「営衛生会」)

人は食物から気を摂取する。食物が胃に入ると、その気が肺にめぐる。五臓六腑はすべてその気を受けている。清んだ気を営気として、濁った気を衛気とする。営気は脈中をめぐり、衛気は脈外をめぐる。営衛の気はめぐりめぐって、一昼夜に五十周して手のない環のようなものである。・・・・・・
営気は中焦から出て、衛気は下焦から出る。・・・・・・営衛の気は精気である。

【原文】五蔵者、所以蔵精神魄者也。六府者、所以受水穀而行化物者也。其気内於五蔵、而外絡肢節。其浮気之不循経者、其精気之行於経者、為営気。(『霊枢』「衛気」)

五臓とは、精・神・魂・魄を蔵するものであり、六腑とは、飲食物〔の気〕を受けてそれをめぐらせ変化させるものである。その気は五臓に入ると、手足や節々に連絡する。その浮いた気で経にめぐらないものが衛気であり、精気の経にめぐるものが営気である。

【原文】営気者、泌其津液、注之於脈、化以為血、以栄四末、内注五蔵六府、以応刻数焉。衛気者、出其悍気之慓疾、而先行於四末分肉皮膚之間而不休者也。(『霊枢』「邪客」)

営気は、津液を分泌しそれを脈にそそぎ、変化させて血をつくり、四肢を活発にし、内は五臓六腑にそそいで、時間の動きに対応している。衛気は、悍気のすばやさを発出するものであって、まず四肢・肉と肉のわかれめ、皮膚の間をめぐり、休むことのないものである。

【原文】衛気者、所以温分肉、充皮膚、肥腠理、司開合者也。・・・・・・衛気和則分肉解利、皮膚調柔、腠理致密矣。(『霊枢』「本蔵」)

きめをゆたかにし、汗腺の開閉をコントロールするものである。・・・・・・衛気が調和すれば、肉と肉のわかれめはときほぐされ、皮膚は柔らかくなり、肌のきめもこまかくなる。

【原文】営気之道、内穀為宝。穀入於胃、乃伝之肺、流溢於中、布散於外、精専者行於経隧、常営無己。終而復始。是謂天地之紀。(『霊枢』「営気」)

営気の運行では、体内において食物が宝である。食物が胃に入り、気が肺にめぐり、体内を流あふれて体外に散布するが、その中の精髄は経脈をめぐり、常にめぐってやむことがない。終ってもまた始まるのである。これを天地の紀というのである。

【原文】壅遏営気、令無所避、是謂脈。(『霊枢』「決気」)

営気をさえぎりとどめ、のがれることができないようにさせているものを、脈という。

【原文】中焦亦並胃中、出上焦之後。此所受気者、泌糟粕、蒸津液、化其精微。上注於肺脈、乃化而為血。以奉生身、莫貴於此。故独得行於経隧。命曰営気。(『霊枢』「営衛生会」)

中焦もまた上焦と同じく胃とならんでおり、上焦の後から出ているのである。上焦・中焦から出た気のはたらきは、糟粕を分泌し、津液を蒸し、その精微を変化させる。のぼって肺脈に注ぎ、そこで変化して血となる。こうして体を養生するのには、これより重要なものはないのである。だから、それだけが経隧をめぐることができる。しがたってこれを営気という。

【原文】此皆得之夏傷於暑。熱気盛、蔵於皮膚之内、腸胃之外。此栄気之所舎也。(『素問』「瘧論」)

これらはすべて夏の暑さに傷つけられた結果である。これは熱気がさかんであると、〔熱気が〕皮膚の内側や腸胃の外側に貯蔵されるからである。それらの部位は営気のやどっているところなのである。

【原文】人有大谷十二、小谿三百五十四名、少十二兪。此皆衛気之所留止、邪気之所客也、鍼石縁而去之。(『素問』「五蔵生成」)

人には、大谷十二分〔大経脈の会う所〕と少谿三百五十四名があるが、十二兪はふくまない。これらはみな衛気のとどまるところであるが、邪気がはいりこむところでもあるので、鍼石によってこれをとりのぞくのである。

【原文】衛気之在身也、常然並脈循分肉。行有逆順、陰陽相随、乃得天和。五蔵更始、四時循序、五穀乃化。(『霊枢』「脹論」)

衛気の身体でのあり方は、つねに脈とならんで肉と肉のわかれめをめぐる。そしてそのめぐり方には逆順があって、陰陽があいしたがうなら、自然の調和をうる。そして体内では五臓がたがいに〔運行を〕始め、体外では四季のめぐりがととのって、五穀は営衛の気に変化するのである。

【原文】故気従太陰出、注手陽明、下行至跗上、注大指間、与太陰合、上行抵髀。従脾注心中、循手少陰出腋下臂、注小指、合手太陽、上行乗腋出□内、注目内眥。上巓下項、合足太陽、循脊下尻、下行注小指之端。循足洗注足少陰、上行注腎。従腎注心、外散於胸中、循心主脈出腋下臂。出両筋之間、入掌中、出中指之端、還注小指次指之端、合手少陽。上行注膻中、散於三焦。従三注胆、出脅注足少陽、下行至跗上、復従跗注大指間、合足厥陰、上行至肝。従肝上注肺、上循喉嚨、入頏顙之竅、究於畜門。其支別者、上額循巓下項中、循脊入骶。是督脈也。経陰器、上過毛中、入臍中。上循腹裏、入缺盆、下注肺中、復出太陰。此営気之所行也、逆順之常也。(『霊枢』「営気」)

それゆえ、営気は太陰経から出て、手の陽明経にそそぐ。さらにのぼって足の陽明経にめぐり、くだって足の甲の上にめぐり、親指の間にそそぎ、また太陰経と合してのぼって、もものあたりにめぐる。そして脾から心の中にそそぎ、手の少陰経にしたがって脇へ出てうでにくだり、小指にそそぎ、手の太陽経と合して、のぼって腋にめぐりほお骨の内側に出て、目のまなじりにそそぐ。
さらに頭頂にのぼってうなじにくだり、足の太陽経に合して、背中にそって尻にくだり、足の小指のはしにそそぎめぐる。足の中心から足の少陰経にそそぎ、のぼって腎にめぐりそそぐ。腎から心にそそいで、胸中に散り、心の主脈から脇へ出てうでにくだる。

そして両筋のあいだにゆき、てのひらに入り、中指のはしに出て、めぐって小指・くすり指のはしにそそぎ、手の少陽経と合する。のぼって膻中にそそぎ、くだって足の甲の上をめぐり、またそこから親指のあいだにそそぎ、足の厥陰経に合して、のぼって肝に至る。
肝からのぼって肺にそそぎ、のぼって気管支にそって喉頭から鼻孔にめぐって終る。またそれからわかれた〔脈〕は、ひたいにのぼって頭頂からうなじの中央にくだり、背骨にそって尾骶骨に入る。これが督脈である。それは性器に連結して陰毛中をのぼっていき、へそに入る。
腹のうらがわにそって厥盆〔肩のくぼみ〕に入り、くだって肺の中にそそいで、ふたたび太陰経に出る。これが営気のめぐりかたであり、その運行の順序の基本である。

【原文】故衛気之行、一日一夜五十周於身。昼日行於陽二十五周、夜行於陰二十五周、周於五蔵。(『霊枢』「衛気行」)

だから衛気の運行は、一昼夜で身体を五十周するのである。日中は陽の部分を二十五周し、夜は陰の部分を二十五周し、五臓をめぐるのである。

【原文】天温日明、則人血淖液而衛気浮。故血易写、気易行。天寒日陰、則人血凝泣而衛気沈。月始生、則血気始精、衛気始行。月郭満、則血気実、肌肉堅。月郭空、則肌肉減、経絡虚、衛気去、形独居。(『素問』「八正神明論」)

天候があたたかく、日が明るいと、人間の血はやわらかく流れ、衛気は体表にうかんでくる。そのため血は瀉しやすく、気もめぐりやすい。天候が寒く、日もかげっていると、人の血もこりかたまって、衛気は体内にしずんでいく。月が新月のときは、血気も清らかになり、衛気もめぐりだす
。満月になると血気は充実し、皮膚もひきしまる。月が欠けてしまうと、皮膚がおとろえ、経絡も虚しくなり、衛気も去ってしまい、肉体のみが残る。

【原文】故聖人伝精神、服天気、而通神明。失之則内閉九竅、外壅肌肉、衛気散解。此謂自傷、気之削也。(『素問』「生気通天論」)

だから聖人は、精・神の気をつたえ、天気を服して神明に通ずるのである。この状態を失えば、体内では体の九つの穴が閉じ、体外は肌がふさがり、衛気はちりぢりになってしまう。これを自傷というが、そえは気をけずりとっていることなのである。

【原文】栄気虚則不仁、衛気虚則不用。栄衛倶虚、則不仁且不用、肉如故也。(『素問』「逆調論」)

営気がなくなれば、感覚が麻痺し、衛気がなくなると、動けない。営気と衛気がともになくなれば、感覚が麻痺し動けなくなくなるが、肉はもとのままである。

【原文】風気与太陽倶入、行諸脈兪、散於分肉之間、与衛気相干、其道不利。故使肌肉憤□而有痬、衛気有所凝而不行、故其肉有不仁也。(『素問』「風論」)

風気が大きな陽気とともに入ると、さまざまの脈や兪をめぐり、肉と肉のわかれめに分散して、衛気とおかしあい、その通路が不通となる。だから肌肉がふさがって、ふくれてできものができる。衛気がかたまってめぐらなくなるため、そこの肉が麻痺してしまうのである。

【原文】衛気不行、則為不仁。虚邪徧容於身半、其入深、内居営衛、営衛稍衰。則真気去、邪気独留、発為偏枯。(『霊枢』「刺節真邪」)

衛気がめぐらないと、感覚が麻痺してしまう。虚邪が半身に侵入すると、深部に入りこんで内にある営衛の気がおとろえる。すると真気が去ってしまって邪気のみがとどまり、半身不随になってしまうのである。

【原文】飲酒者、衛気先行皮膚、先充絡脈。絡脈先盛、故衛気己平。営気乃満、而経脈大盛。(『霊枢』「経脈」)

酒を飲むと、衛気が皮膚をめぐり、絡脈がみちる。そこで絡脈がさかんになるために、衛気が安定する。すると営気もみちて経脈もさかんになるのである。

【原文】寒湿之傷人奈何。岐伯曰、寒湿之中人也、皮膚不収、肌肉堅緊、栄血泣、衛気去。故曰虚。虚者聶辟気不足。按之則気足以温之、故快然而不痛。・・・・・・
上焦不通利、則皮膚緻密、腠理閉塞、玄府不通。衛気不得泄越。故外熱。(『素問』「調経論」)

「寒気や湿気が人を傷つけるとはどういうことか」。岐伯が答える、「寒気や湿気が人にあたると、皮膚はととのわず肌肉はかたくこわばり、営気と血はとどこおり、衛気は去ってしまう。
だからこれを虚という。虚というのは、ととのえる気が不足しているのである。そこで、その部分をおさえると気が足りてあたたかくなり、気持ちよくなって痛くなくなるのである。・・・・・・
上焦がスムーズでなくなると、皮膚がひきしまり、毛穴がふさがり、汗腺が通じなくなる。そこで衛気がもれることができなくなって、体表に熱をもつのである」

【原文】虚邪之中人也、酒淅動形。起毫毛而発腠理。・・・・・・摶於肉、与衛気相摶、陽勝者則為熱、陰勝者則為寒。寒則真気去、去則虚、虚則寒。(『霊枢』「刺節真邪」)

虚邪の気が身体をおかすと、明瞭に体にあらわれる。細い毛からはじまって毛穴にあらわれる。・・・・・・肉において衛気とたたかい、陽が勝つと熱をもち、陰が勝つと寒気を感ずる。寒になると真気が去り、真気が去ると、虚になり、虚になると寒いのである。

【原文】此外傷於風、内開腠理、毛蒸理泄。衛気走之、固不得循其道。此気慓悍滑疾、見開而出。故不得従其道、故命曰漏泄。(『霊枢』「営衛生会」)

これは、外側から風に傷つけられて、内側から毛穴が開き、毛が蒸れて、汗がもれるのである。すると衛気はそこへ走るが、もちろん通常の通路を通るのではない。衛気はかるがるとしてすばやくスムーズに動く気であるから、毛穴が開いた所をみつけるとそこに走り出るのである。だから通常の通路を通らないのであり、これを漏泄とよぶのである。

【原文】風府無常。衛気之所応、必開其腠理、気之所舎節、則其府也。・・・・・・風気留其処、瘧気随経絡沈以内摶。故衛気応乃作也。(『霊枢』「歳露論」)

風のある場所は一定ではない。衛気の応ずるところは、かならずそこの毛穴が開くが、気のやどるところの節がその府となるのである。・・・・・・風気がその場所にとどまると、瘧気が経絡にしずんで内に集まる。だから衛気がそれに応じて、瘧〔おこり〕がおこるのである。


【原文】衛気者、昼日行於陽、夜行於陰。此気得陽而外出、得陰而内薄。内外相薄、是以日作。・・・・・・衛気之所在、与邪気相合則病作。(『素問』「瘧論」)

衛気は、日中は陽の部位をめぐり、夜は陰の部位をめぐる。この内と外とがたがいにせめぎあうと、それによって一日に一回、瘧がおこるのである。・・・・・衛気のあるところに、邪気が合わさると病気になる。

【原文】営気不従、逆於肉理、乃生癰腫。(『素問』「生気通天論」)

営気が順調ではなく、肉のわれめにさからってめぐると、できものを生ずる。

【原文】寒邪客於経絡之中則血泣、血泣則不通、不通則衛気帰之、不得復反。故癰腫。・・・・・・
営衛稽留於経脈之中、則血泣而不行。不行則衛気従之而不通。壅遏而不得行、故熱。大熱不止、熱勝則肉腐、肉腐則為膿。然不能陥、骨髄不為燋枯、五蔵不為傷。故命曰癰。(『霊枢』「癰疽」)

寒邪が経脈や絡脈の中にやどると、血がとどこおり、血がとどこおると流れなくなり、流れなくなると、衛気がそこに集まって元にもどらなくなる。だからできものができる。・・・・・・
営衛の気が経脈の中のとどまると、血はとどこおってめぐらなくなる。血がめぐらなくなると衛気は通じなくなる。さえぎられてめぐることができないために熱をもつのである。はげしい熱がやまず、熱が勝つと肉がくさり、肉がくさるとうみができる。
しかし、それ以上深くなることはできないため、骨髄は炎症をおこさず、五臓もそこなわれない。だから癰というのである。

【原文】営気循脈衛気逆為脈腸。衛気並脈循為膚腸。(『霊枢』「腸論」)

営気が脈にそってめぐり、衛気が逆にめぐると、脈が膨張する。また衛気が脈に並行して分肉にそってめぐると皮膚が膨張する。

【原文】孫絡三百六十五穴会、亦以応一歳。以溢奇可胃邪、以通栄衛。栄衛稽留、衛散栄溢。気竭血著、外為発熱、内為少気。疾写無怠、以通栄衛。見而写之、無問所会。・・・・・・
邪溢気壅、脈熱肉敗、栄衛不行、必将為膿。内鎖骨隋、外破大膕。留於節湊、必将為敗。
積寒留舎、栄衛不居、巻肉縮筋、肋肘不得伸。内為骨痺、外為不仁。命曰不足、大寒留於渓谷也。(『素問』「気穴論」)

孫絡は三百六十五あり、また一年の日数に対応している。奇邪〔の気〕のあふれるところで、また営衛の気の通じるところでもある。営衛の気がとどこおると、衛気は分散して営気はあふれる。気がかれて血がかたって流れなくなると、外では発熱し、内では気が少なくなる。この場合はすばやく瀉しておこたらぬようにして、営衛の気を通じさせる。状態を見て瀉するのであり、その場所は問題ではない。・・・・・・

邪があふれ気がふさがれると、脈が熱をもち肉が腐敗し、営衛の気はめぐらず、きっとうみをもつようになる。体内では骨髄がとけ、体外ではひざのうらがわがやぶれる。関節にとどまれば、かならず腐敗するようになる。寒邪がかたまってとどまっているところには営衛の気はおらず、筋肉がひきつり、肋骨やひじがのばせなくなる。体内では骨がしびれ、体外では麻痺がおきる。これを不足といい、大寒が渓・谷〔肉の会するところ〕にとどまっているのである。

【原文】清気在陰、濁気在陽、営気順脈、衛気逆行、清濁相干、乱於胸中。是謂大□。(『霊枢』「五乱」)

清気が陰の部位にあり、濁気が陽の部位にあると、営気が脈にしたがってめぐっていても衛気は逆行し、清気と濁気がたがいにおかしあって、胸中にみだれが生ずる。これを大□というのである。

【原文】営之生病也、寒熱少気、血上下行。衛之生病也、気通時来時去、怫愾賁響、風寒客於腸胃之中。(『霊枢』「寿夭剛柔」)

営気が病を生ずると、寒けがし発熱して気が少なくなり、血が上下にめぐる。衛気が病を生ずると、気は通じるが一定ではなく、ふさがりもりあがってひびき、風寒が腸胃の中にとどまったままとなる。

【原文】衛気之留於腹中、搐積不行、苑蘊不得常所、使人支脅胃中満、喘呼逆息者、何以去之。伯高曰、其気積於胸中者、上取之、積於腹中者、下取之。上下皆満者、傍取之。(『霊枢』「衛気失常」)

「衛気が腹中に留まって、蓄積してめぐらず、鬱結して一定の場所にない場合は、その人は脇のあたりが圧迫され、胃の中がいっぱいで、ぜいぜいして息が苦しいものだが、どうやって治すのか」。伯高が答えていう、「衛気が胸の中にたまったものは、上部からそれをとりだし、腹の中にたまったものは、下部からそれをとりだす。上下ともにいっぱいなものは、よこからそれをとりだす」

【原文】嘗貴後賤、雖不中邪、病従内生。名曰脱営。・・・・・・身体日減、気虚無精、病深無気、洒洒然時驚。病深者、以其外耗於衛、内奪於栄。(『素問』「疏五過論」)

はじめは高貴であったが、のちに卑賤になった場合は、外邪があたっていなくとも、病は精神に生じる。これを脱営という。・・・・・・:身体が日ごとにおとろえ、気が虚しくなり、精がなくなると、病は深くなり、気はなくなって、ぞくぞくとして寒けがする。病が深いものは、外では衛気を消耗し、内では営気がうばわれているのである。

【原文】壮者之気血盛、其肌肉滑、気道通、営衛之行、不失其常。故昼精而夜瞑。老者之気血衰、其肌肉枯、気道渋、五蔵之気相搏、其営気衰少而衛気内伐。故昼不精、夜不瞑。(『霊枢』「営衛生会」)

壮年の者の気・血は盛んであるから、その肌肉はなめらかで、気の通路も通じており、営衛の気のめぐりも順調である、だから昼は元気でいて、夜は熟睡できるのである。
老年の者の気・血はおとろえているから、その肌肉はかさかさし、気の通路もとどこおり、五臓の気も不調になり、営気はおとろえ少なくなり、衛気も内にあってみだれてしまう。だから昼は元気がなく、夜も熟睡できないのである。

【原文】衛気不得入於陰、常留於陽。留於陽則陽気満、陽気満則陽蹻盛。不得入於陰則陰気虚。故目不瞑矣。・・・・・・
衛気留於陰、不得行於陽。留於陰則陰気盛、陰気盛則陰蹻満。不得入於陽則陽気虚。故目閉也。・・・・・・
腸胃大則衛気留久、皮膚湿、分肉不解、其行遅。・・・・・・留於陰也久、其気不清、則欲瞑。故多臥矣。
其腸胃小、皮膚滑以緩、分肉解利。衛気之留陽也久、故少瞑焉。(『霊枢』「大惑論」)

衛気が陰の部位に入れないと、つねに陽の部位にとどまったままである。陽にとどまると陽気にみち、陽気がみちると、陽蹻脈がさかんになる。陰の部位に入れないと、陰気がむなしくなる。
だからねむれないのである。・・・・・・衛気が陰の部位にとどまると、陽の部位にめぐることができない。陰にとどまると陰気がさかんになり、陰気がさかんになると、陰蹻脈がみちる。陽の部位に入れないと、陽気がむなしくなる。だからねむくなるのである。・・・・・・

腸胃が大きければ衛気が長くとどまり、皮膚がしめり、分肉もほぐれず、その流もおそくなる。・・・・・・陰に長くとどまっていると、その気は清まず、ねむくなる。だから横になることが多くなるのである。
もし腸胃が小さければ、皮膚もなめらかでこわばらず、分肉もほぐれる。衛気が陽に長くとどまっているためにねむりにくくなるのである。

【原文】凡刺之理、経脈為始。営其所行、知其度量。内刺五蔵、外刺六府。審察衛気、為百病母、調其虚実。虚実乃止、写其血絡。血尽不殆矣。(『霊枢』「禁服」)

そもそも刺法の道理は、経脈を第一とするものである。〔脈の〕めぐるところにはすじみちがあり、その長さや量を知らねばならない。体内にむけては五臓に刺し、体表からは六腑を刺す。
衛気は百病のもとであるのでそれをくわしく観察し、虚・実をととのえる。虚・実もそこにとどまれば、その血絡を瀉する。すると鬱血はつきて、危険は去るのである。

【原文】刺営者出血、刺衛者出気。(『霊枢』「寿夭剛柔」)

営気に刺す場合は血を出し、衛気に刺す場合は気を出す。

【原文】病在気、調之衛。(『素問』調経論」)

病が気にあるときは、衛気で調和させる。

【解説】
営衛の気はみな飲食物に由来するものであり、脾と胃に依拠して生ずる。営気は柔順で陰に属し、脈内をめぐり、血液を生成し、全身の機能をはたらかせている。衛気はかるがるとしてスムーズで陽に属し、脈外をめぐり、臓腑をあたため養い、皮膚を充実させ、汗腺の開閉をコントロールし、外邪の侵入を防御するはたらきをもつ。営衛の気はならびめぐって、たがいにみだしあわず、一昼夜で全身を五十周して夜中に内臓でであう。これを「合陰」という。営衛の気の運行とはたらきが不調になると、一連の病気が生ずる。

 明代の汪機〔1463‐1539〕の、営衛の気についての論述はきわめて精確なものであった。彼はつきのように論じている。「区別していえば、衛気は陽であり、営気は陰である。合わせていえば、営の陰が衛の陽とは関係しないならば、昼夜に運行して、関節をスムーズにすることはない」と。彼は営気を重視して、営気にもまた陰陽の区別があることを指摘している。

陽を補うとは、営気の陽を補うことであり、陰を補うとは、営気の陰を補うことである。その師の〔朱〕丹渓〔1281-1358〕の学は、〔朱〕東垣の法をあわせかねており、自由自在に人参や黄耆などの薬草を使って営気を補うことに長じていた。彼は「丹渓は陰を補うことを主としたが、それはもとより営を補うためであった。東垣は気を補うことを主とするが、これもまた営を補うものであった。これは営をもって血・気を兼ねるものであるとするからである」と考えていた。

喩昌は、「営の中には衛があり、衛の中には営がある」と強調している。彼は衛気をもっとも重視して、「営・衛の義をととのえることは、人体にとっての急務である。その機序を深く考えるに、衛気を自覚することこそ、まずやらなければならないことなのである。・・・・・・この衛気は営気の金湯を保護するものである」と考えた。喩氏はまた営衛の気と奇経八脈との関係について補強してつぎのように指摘している。

「奇経八脈にもまた営衛がある。奇経は正経の中に附属しているものであるが、同時にあわせそそいでいる」「奇経の病は正経の病と同じではないが、それが営衛と関連している点では同じである」と。彼はさらに調衛の法を述べて、人々が衛気を保持するようにとうながし、「天気に服すれば神明に通ずる」と述べている。
葉天士〔1667-1746〕をリーダーとする温熱学派は、営衛理論と気血理論とを結合し、熱病と衛気営血の間の病理関係を深く研究した。これにより、おおいにその学術的内容を充実し、営衛理論の実際的応用を発展させた。


■生理
【原文】上焦開発、宣五穀味、薫膚、充身、沢毛、若霧露之漑。是謂気。(『霊枢』「決気」)

上焦が開き、五穀の味〔精微〕を散布すると、皮膚を温め、身体を充足させる。毛髪をつややかにし、ちょうど霧や露が万物にそそぐのに似ている。

【原文】気合而有形、得蔵而有名。(『霊枢』「順気一日分為四時」)

邪気が正気と合することによって病が形成され、個々の臓器に結び付くことによって、病名がわかれるのである。

【原文】気合而有形。因変以正名。(『素問』「六節蔵象論」)

 〔天地の〕気が合することによって、万物が形成される。そこで事態の変化にもとづいて名称が正されるのである。

【原文】以名命気、以気命処、而言其病。(『素問』「至真要大論」)

名称をもって気に名付け、気によって身体部位に命名し、その病が何であるかをいうのである。

【原文】善言気者、必彰於物。(『素問』「気交変大論」)

気について論ずるものは、事物に通暁していなければならない。


【原文】天覆地載。万物悉備、莫貴於人。人以天地之気生、四時之法成。・・・・・・
人生於地、懸命於天。天地合気、命之曰人。(『素問』「宝命全形論」)

天はおおいてかぶさり、地は物をのせる。万物がことごとく存在する中で、人より貴ものはない。人は天地の気によって生じ、四季の運行法則にしたがって生成する。・・・・・・人は地に生まれ、命は天に依存している。天と地が気をあわせたもの、それを人というのである。

【原文】天之在我者徳也。地之在我者気也。徳流気薄而生者也。(『霊枢』「本神」)

われわれに与えられた天のはたらきが徳である。われわれにあたえられた地のめぐみが気となる。天から徳が下に流れ、地からの気がそれに接近して、生成がおこるのである。

【原文】人有精気津液血脈、余意以為一気耳。(『霊枢』「決気」)

人には精・気・津・液・血・脈等があるが、私が思うに、これらはただ一気にすぎないのである。

【原文】人之始生、何気筑為基、何立而為楯、何失而死、何得而生。岐伯曰、以母為基、以父為楯、失神者死、得神者生也。(『霊枢』「天年」)

「人が生まれるには、いかなる気が土台となり、なにものを立ててそのまもりとするか。なにが失われて死にいたり、なにを得ることで生存するのだろうか」。岐伯が答える、「母を生命の土台とし、父を生命のまもりとする。神気を失えば死にいたり、神気を得れば生きることができるのである」

【原文】人受気於穀。穀入於胃、以伝与肺。五臓六腑、皆以受気、其清者為営、濁者為衛。営在脈中、衛在脈外。営周不休、五十而復大会。(『霊枢』「玉版」)

人は気を食物から受ける。食物は胃に入り、肺につたわる。五臓六腑はこうして気を受け、その清らかなものは営気となり、濁ったものは衛気となる。営気は脈中にあり、衛気は脈外にある。営衛の気はめぐって休むことがなく、両者は一昼夜で五十周し、〔手太陰肺経で〕めぐり会う。

【原文】人之所受気者、穀也。穀之所注者、胃也。胃者、水穀気血之海也。(『霊枢』「玉版」)

人が気を受けるのは食物からである。食物が流入するところが胃である。胃とは飲物や気血の海である。

【原文】胃者、五蔵六府之海也。水穀皆入於胃、五蔵六府皆稟気於胃。(『霊枢』「五味」)

胃とは五臓六腑をやしなう海である。飲食物はすべて胃に流入し、五臓六腑はいずれも気を胃から受ける。

【原文】諸気者、皆属於肺。(『素問』「五蔵生成」)

諸々の気は、みな肺に属する。

【原文】肺者、気之本。(『素問』「六節蔵象論」)

 肺とは気の根本である。

【原文】陽為気、陰為味。味帰形、形帰気。気帰精、精帰化。精食気、形食味、化生精、気生形。・・・・・・
壮火之気衰、少火之気壮。壮火食気、気食少火。壮火散気、少火生気。(『素問』「陰陽応象大論」)

陽は気となり、陰は味となる。味は身体にやしなわれ、身体は気にやしなわれる。気は精に養われ、精は生成変化により養われる。だから精は気を養い、身体は味をやしない、生成変化は精を生み、気は身体を生みだす。・・・・・・
壮火の気〔過度に身体機能を亢進させる陽気〕は人を衰弱させ、少火の気〔過度の陽気〕は人を強壮にする。
壮火は気を消耗させ、気は少火にやしなわれる。壮火は気を消散させ、少火は気を生ずる。

【原文】陰者主蔵、陽者主府。陽受気於四末、陰受気於五蔵。(『霊枢』「終始」)

手足の三陰陽は五臓六腑をつかさどる。陽は気を四肢からうけとり、陰は気を五臓から受ける。

【原文】五蔵者、合神気魂魄而蔵之。六府者、受穀而行之、受気而揚之。(『霊枢』「経水」)

五臓は神・気・魂・魄などをあわせておさめている。六腑は、食物を受けいれてこれをめぐらせ、その気を受けて全身に散布する。

【原文】膻中者為気之海。(『霊枢』「海論」)

膻中〔胸の中央、心臓部〕は気の海である。

【原文】其気内干五蔵、而外絡肢節。・・・・・・気在頭者、止之於脳。気在胸者、止之譍与背□。気在腹者、止之背□与衝脈於臍左右之動脈者。気在脛者、止之於気街与承山、踝上以下。(『霊枢』「衛気」)

〔飲食の精微の〕気は内は五臓につらなり、外は肢節につながる。・・・・・
気は頭部では脳にとどまる。胸部では譍〔前胸部の両側〕と背□〔胸の後側〕にとどまる。気が腹部にとどまると、背□と衝脈とへその左右の動脈〔強く拍動する豆状の脈〕にとどまる。すねのあたりにある気は、足陽明経の気街穴と足太陽経の承山穴、ならびにくるぶしの上下にとどまる。

【原文】腸胃受穀、上焦出気、以温分肉、而養骨節、通腠理。中焦出気如露、上注谿谷、而滲孫脈。津液和調、変化而赤為血。血和則孫脈先満溢、乃注於絡脈。皆盈、乃注於経脈。(『霊枢』「癰疽」)

陽胃は飲食物を受け、上焦は気を出し、分肉をあたため、骨や関節をやしない、毛穴を通じさせる。中焦は露のように気を出し、のぼって谿谷〔筋肉の隙間やくぼみ〕にそそぎ、孫脈にしみ出る。津液が調和し、変化して赤い血となる。血がととのえば孫脈がまずみちあふれて、経脈へそそぎこむ。完全に充満すれば経脈気感にそそぐ。

【原文】中焦亦并胃中、出上焦之後。此所受気者、泌糟粕、蒸津液。化其精微、上注於肺脈、乃化而為血。以奉生身、莫貴於此。(『霊枢』「営衛生会」)

〔上焦同様〕中焦もまた胃にならび、上焦のうしろから出ている。これは気が受け取られる場所であり、糟粕を分離し、津液を蒸らす。〔食物の〕精微を化成させてのぼって肺にそそぎ、変化して血となる。このように生体をやしなうので、これ以上に貴ものはない。

【原文】上焦泄気、出其精微。慓悍滑痎。下焦下漑諸腸。(『霊枢』「平人絶穀」)
 上焦は気をもらして食物の精微を発出する。その動きはすばやく、なめらかである。下焦がそれをくだして、腸にそそぎこむ。

【原文】気積於胃、以痛営衛、各行其道。(『霊枢』「刺節真邪」)

気は胃にたまり、営気と衛気を通じてそれぞれの経路をめぐらせる。

【原文】喉嚨者、気之所以上下者也。・・・・・・頏顙者、分気之所泄也。(『霊枢』「憂恚無言」)

喉嚨〔気管〕は気が昇降する部位である。・・・・・・頏顙〔鼻孔〕は鼻と口への呼気のもれ口である。

【原文】口鼻者、気之門戸也。(『霊枢』「口問」)

口と鼻は、気の門戸である。

【原文】四末陰陽之会者、此気之大絡也。四街者、気之径路也。(『霊枢』「動輸」)

四肢は陰陽諸経の会合するところであり、気の大きな通路である。四街は気の径路である。

【原文】九竅水注之気。(『素問』「陰陽応象大論」)

九竅とは水をそそぐように気を通じさせるものである。

【原文】其気之津液、皆上薫於面。而皮又厚、其肉堅。故天気甚寒不能勝之也。(『霊枢』「邪気蔵府病形」)

各種の気の津液は、それぞれ、顔を蒸らす。顔面の皮はややあつく、その肉もかためである。だから気候が極めて寒いときでも、顔を侵すことは出来ないのである。

【原文】気之不得無行也、如水之流、如日月之行不休。故陰脈栄其蔵、陽脈栄其府、如環之無端、莫知其紀、終而復始。其流溢之気、内漑蔵府、外濡腠理。(『霊枢』「脈度」)

気が停止することがないのは、ちょうど川の流れや日月に休みがないのと同じである。だから陰蹻脈が五臓をめぐり、陽蹻脈が六腑をめぐるのは、輪に端がないように、きわまるときがなく、終ればまた始まるのである。そのあふれ流れる気は、内は臓腑にそそぎ、外は肌のきめをうるおす。

【原文】所謂五十営者、五蔵皆受気。持其脈口、数其至也、五十動而不一代者、五蔵皆受気。四十動一代者、一蔵無気。三十動一代者、二蔵無気。二十動一代者、三蔵無気。十動一代者、四蔵無気。不満十動一代者、五蔵無気。予之短期。要在終始。(『霊枢』「根結」)

「五十営」といわれるものは、五臓のそれぞれが、気を受けるとるものである。脈口〔脈診の部位〕をおさえて拍動をかぞえるとき、五十回に一度も停止することがないならば、五臓はそれぞれ気を正常に受け取っているのである。四十回に一度停止するなら一つの臓器に気が不足しているのである。三十回に一度の停止ならば、二つの臓器に気が不足している。二十回に一度の停止は三つの臓器に気が不足している。

十回に一度の停止は四つの臓器に気が不足しているのである。十回未満に一度停止するようであれば、五臓に気がふそくしているのである。予後は短い。その大要は〔(『霊枢』の〕「終始」にある。

【原文】出入廃則神機化滅。昇降息気立孤危。故非出入、則無以生長壮老己。非昇降、則無以生長化収蔵。是以昇降出入、無器不有。(『素問』「六微旨大論」)

呼吸の出入が停止すれば神機〔動物の生命〕は消滅する。天地陰陽の気の昇降が絶えれば気立〔植物の生命〕はあやうくなる。だから呼吸の出入なくしては生物の生・長・壮・老・己と言うこともなくなってしまい、天地陰陽の気の昇降がなければ生・長・化・収・蔵のはたらきはなくなってしまう。このようにあらゆる生物で、昇降出入ということがないものはないのである。

【原文】膏者多気。多気者熱。熱者耐寒。肉者多血、則充形。充形則平。脂者、其血清、気滑少、故不能大。(『霊枢』「衛気」)

膏〔腠裏の肉が堅くなく皮膚がゆるんでいる〕の体質の人は気が多い。気が多いものは熱をもつ。熱をもつものは寒さに耐える。肉〔皮と肉とが離れない〕の人は地が多いので、身体は充実している。身体が充実すれば体質も安定している。脂の体質の人はその血が清んでおり、気はなめらかに流れるが少量なので、身体は大きくない。

【原文】婦人之生、有余於気、不足於血。以其数脱血也。衝任之脈、不栄口唇。故鬚不生焉。(『霊枢』「五音五味」)

婦人の生理的特徴は、気は余っているが血は不足していることである。これは周期的に血が抜け出るからである。そのために衝脈・任脈が唇の周囲をめぐらない。それでヒゲが生えないのである。

【原文】痩人者、・・・・・・其血清気滑、易脱於気、易損於血。・・・・・・常人、・・・・・・其血気和調。・・・・・・壮士、・・・・・・重則気墻血濁、・・・・・・勁則気滑血清、・・・・・・嬰児者、其肉脆血少気弱。(『霊枢』「逆順肥痩」)

痩せた人は・・・・・・その血が清んでいて気の動きがなめらかなため、気はぬけやすく、血はそこなわれやすい。・・・・・・健常者は、・・・・・・その血気は調和している。・・・・・・強壮な人は、・・・・・・目方が重く、気は停滞して血が濁っている。その中でも敏婕な人は、気がなめらかで血は清んでいる。・・・・・・嬰児は肉がやわらかく、血は少なく、気も微弱である。

【原文】重陽之人、熇熇高高、言語前疾、拳足善高。心肺之蔵気有余、陽気滑盛而揚、故神動而気先行。(『霊枢』「行鍼」)

重陽の人は、炎がもえあがっておとろえを知らぬように、口が滑らかで歩行もかろやかである。心肺の臓器はあり余り、陽気の動きはなめらかで充実して発散するために、精神は感動しやすく、刺鍼ののちに、気はただちにめぐる。

【原文】壮者之気血盛、其肌肉滑。気道通、営衛之行、不失其常。故昼精而夜瞑。老者之気血衰、其肌肉枯。気道渋、五蔵之気相摶。其営気衰少而衛気内伐。故昼不精、夜不瞑。(『霊枢』「営衛生会」)

壮年の人は血気がさかんであり、その肌肉もなめらかである。気の道はとどこおりなく、営気・衛気のめぐりも正常をたもっている。このため昼間は清々しく、夜はよくねむることができるのである。老人の血気は衰弱し、その肌肉はひからびている。気道は停滞し、五臓の気がせめぎあう。営気は減少し、衛気が体内で支配的になる。このため昼間も気が晴れず、夜はねむれないのである。

【原文】年四十、而陰気自半也、起居衰矣。年五十、体重、耳目不聡明矣。年六十、陰痿、気大衰。九竅不利、下虚上実、涕泣倶出矣。(『素問』「陰陽応象大論」)

 年四十ともなると、陰気がなかばをせめるようになり、立居振舞もおとろえる。年五十ともなると、身体も鈍重となり、耳目は聡明でなくなる。年六十ともなれば、陰痿となり、気はおおいにおとろえる。九竅は通じなくなり、身体下部は虚となり、上部は実となって鼻水や涙がいっしょになって出てくる。


■病理
【原文】久臥傷気。(『素問』「宣明五気」)

長時間横になっていると、気をそこなう。

【原文】穀虚気虚。・・・・・・穀入多而気少者、得之有脱血、居下也。・・・・・・虚者、気出也。・・・・・・気虚者、寒也。
(『素問』「刺志論」)

食物を取らないと、気は虚となる。・・・・・・気が虚なのに、身体が熱をもつのは暑気あたりのせいである。
食物を多く取ったにもかかわらず、気が少ないのは脱血〔貧血〕や、湿気が下半身にとどこおっているためである。・・・・・・虚とは、正気が外に出てしまったことである。・・・・・・〔皮膚をつまみつつ鍼をうつ時〕気が虚となる者は寒となる。

【原文】天地之精気、其大数常出三入一。故穀不入、半日則気衰、一日則気少矣。(『霊枢』「五味」)

天地の精気の大いなる決まりとしては、出入の比は三対一である。そのため食物が摂取されないと半日で気はおとろえてゆき、一日で気が欠乏する。

【原文】邪之所湊、其気必虚(『素問』「評熱病論」)

風邪が集中しているところは、その気が虚となっているところである。

【原文】壮火之気衰。・・・・・・壮火食気。・・・・・・壮火散気。・・・・・・熱傷気。(『素問』「陰陽応象大論」)

壮火の気は衰弱させる。・・・・・・壮火は気を消耗させる。・・・・・・壮火は気を発散させる。・・・・・・熱は気をそこなう。

【原文】魄汗未尽。形弱而気爍、穴兪以開、発為風瘧。(『素問』「生気通天論」)

発汗がやまず、身体が衰弱して気が消滅すれば、 兪穴は閉じて風瘧をひきおこすこととなる。

【原文】邪気盛則実、精気奪則虚。・・・・・・気虚者肺虚也。気逆者足寒也。・・・・・・所謂気虚者、言無常也。(『素問』「通評虚実論」)

邪気がさかんであれば実であり、精気が失われれば虚である。・・・・・・気が虚すると肺は虚となる。気が逆すると足が冷える。・・・・・・気虚とは脈動が不正であることをいう。

【原文】肺痺、発欬上気。(『素問』「玉機真臓論」)

肺痺は、せきが出て気をのぼらせものである。

【原文】其気上逆、故口苦乾。臥不得正偃。正偃則咳出清水也。・・・・・・
月事不来者、胞脈閉也。胞脈者属心而絡於胞中、今気上迫肺、心気不得下通、故月事不来也。(『素問』「評熱病論」)

真気が上逆するために口が苦くなり舌がかわく。寝るにもあおむけはなれない。あおむけになれば、せきこんで清んだ水液を吐く。・・・・・・
月経がやって来ないのは胞脈が閉じる為である。胞脈は心に属し、子宮の中をめぐっているが、いま、気がのぼって肺にせまり、心気が下へと通じなくなったことによって、月経がやってこないのである。

【原文】形寒寒飲則傷肺。以其両寒相感、中外皆傷、故気逆而上行。・・・・・・
若有所大怒、気上而不下、積於脇下、則傷肝。(『霊枢』「邪気蔵府病形」)

身体を冷やし、つめたいものをのむことは、肺をそこなう。二つの冷えが感応しあい、内外ともにそこなわれるために、肺気が逆上してしまうのである。・・・・・・
もし、激怒することがあれば、肺気が逆上したまま下降しなくなり、脇の下にたまって肝をそこなうことになる。

【原文】肝病者、・・・・・・気逆、則頭痛耳聾不聡頬腫。・・・・・・肺病者、喘咳逆気、肩背痛、汗出。尻陰股膝髀腨足皆痛。虚則少気不能報息、耳聾嗌乾。(『素問』「蔵気法時論」)

肝病では、・・・・・・気が逆上するので、頭がいたみ、耳がきこえなくなって、頬がむくむ。・・・・・・肺病では喘息がして気が逆上し、肩から背のあたりがいたんで汗が出る。尻・陰部・股・膝・内股・こむら・むこうずね・足などがみないたむ。肺が虚となれば、気が減少し、息がつづかなくなり、耳がきこえず、のどがかわくようになる。

【原文】怒則気上逆。(『霊枢』「五変」)

怒れば気が逆上する。

【原文】無刺大酔。令人気乱。無刺大怒。令人気逆。(『素問』「刺禁論」)

大酔しているものに鍼をうってはならない。その人の気をみだすからである。激怒している人に鍼をうってはならない。その人の気を逆上させるからである。

【原文】因而大飲。則気逆。(『素問』「生気通天論」)

ずっと酒をのみつづけると、気が逆乱する。

【原文】卒然外中於寒、若内傷於憂怒、則気上逆、気上逆則六兪不通、温気不行、凝血蘊裡而不散。津液渋滲、著而不去、而積皆成矣。(『霊枢』「百病始生」)

急に体表が寒にあたったり、体内が憂いや怒りにそこなわれるなら、気が逆上する。気が逆上すれば、六兪
〔六経の気血の運行〕は通じてなくなり、温気がめぐらなくなり、血はかたまり、とどこおって散らなくなる。津液は分泌されず、付着して去らずに積の病となるのである。

【原文】気盛則厥逆。・・・・・・邪在胆、逆在胃、胆液泄、則口苦、胃気逆、則嘔苦。(『霊枢』「四時気」)

邪気がさかんであると厥逆〔四肢の冷え〕を起こす。・・・・・・病邪が胆にあって胃へ逆上すると胆液がもれ出て、口が苦くなり、胃気が逆上するので苦しいものを吐くようになる。

【原文】是以気多少逆皆為厥。(『素問』「方盛衰論」)

だから気の過剰と減少および逆行は、すべて厥なのである。

【原文】衝脈為病、逆気裏急。(『素問』「骨空論」)

衝脈が病むと、逆気がおこって腹の中がひきつれていたむ。

【原文】穀入少而気多者、邪在胃与肺也。・・・・・・実者、気入也。・・・・・・気実者、熱也。(『素問』「刺志論」)

食物の摂取が少ないのに気が多いのは、邪気が胃と肺にあるためである。・・・・・・実とは邪気が侵入することである。・・・・・・〔皮膚をひっぱりながら鍼を刺して〕気が実すれば、身体があたたまる。

【原文】諸気呆呆鬱、皆属於肺。(『素問』「至真要大論」)

さまざまの気の疾病で胸苦しくなるものは、肺に属する。


■診断
【原文】言而微、終日乃復言者、此奪気也。(『素問』「脈要精微論」)

言葉がかすかで一日中くりごとを言っているものは、気が失われているのである。

【原文】気有余則喘咳上気、不足則息利少気。(『素問』調経論」)

気が余りあれば、喘息がして気をのぼらせ、不足すれば息の通りがわるくなり、少気〔気が短くなる〕になる。

【原文】気脱者、目不明。(『霊枢』「決気」)

気がぬけ出てしまうと、目がはっきり見えなくなる。

【原文】上気不足、脳為之不満、耳為之苦鳴、頭為之苦傾、目為之眩。中気不足、洩便為之変、腸為苦鳴。下気不足、則乃為痿厥心悗(『霊枢』「口問」)

上焦の気が不足すると、脳に気が満ちず、耳鳴りがおこり、頭がぐらぐらして、目がくらむ。中焦の気が不足すると大小便に異常がおこり、腸がごろごろする。下焦の気が不足すると痿厥となり、心がいたむ。

【原文】脈細、皮寒、気少、泄利前後、飲食不入、此謂五虚。(『素問』「玉機真蔵論」)

脈がほそい、皮膚がつめたい、気が少ない、大小便をもらす、飲食がすすまないなどの症状を五虚という。

【原文】代則気衰、細則気少。(『素問』「脈要精微論」)

代脈〔途中でとまって、もどらなくなる脈象〕ならば気はおとろえている。細脈〔細軟で糸のような脈象〕ならば気が減少しているのである。

【原文】人一呼脈一動、一吸脈一動、曰少気。(『素問』「平人気象論」)

人が一回息を吐くごとに脈が一度うち、一回吸うごとに一度うつようであれば少気という。

【原文】形盛脈細、少気不足以息者危。(『素問』「三部九候論」)

身体は充実しているのに脈が細く、少気であって十分呼吸できないものは、危険な状態にある。

【原文】形弱気虚、死。形気有余、脈気不足、死。脈気有余、形気不足、生。(『素問』「方盛衰論」)

身体が弱く、気が少ないのは、死の徴候である。身体も気も充実しているが脈が不足しているのは死の徴候である。脈気が余りある一方、身体と気が充足していないのならば、生の徴候である。

【原文】上盛則気高、下盛則気脹。(『素問』「脈要精徴論」)

上〔寸口の脈〕がさかんであれば、気が高所にある。下〔尺中の脈〕がさかんなら気が逆行して腹が脹れる。

【原文】形痩脈大、胸中多気者、死。(『素問』「三部九候論」)

身体がやせているのに、脈象が大きく、胸に気が多くあるのは、死の徴候である。

【原文】気海有余者、気満胸中、悗息面赤。(『霊枢』「海論」)

気海が〔充実して〕余りあるものは、気が胸のなかに満ちて、息苦しくなり顔が赤くなる。


■治療
【原文】治病之道、気内為宝。循求其理、求之不得、過在表裏。(『素問』「疏五過論」)

治療の道は、内気を宝とする。そこに病理をもとめて、得ることができなければ、病は表裏〔体表、経絡および臓腑〕にある。

【原文】心審五蔵之病形、以知其気之虚実、謹而調之也。(『霊枢』「本神」)

五臓の病勢をつまびらかにして、その気の虚実を知って、細心に調整する。

【原文】必先度其形之肥痩、以調其気之虚実。実則写之、虚則補之。(『素問』「三部九候論」)

最初に体型が肥満か、やせているかをみて、その人の気の虚実を調整する。実証であれば瀉し、虚証であれば補する。

【原文】是故上工取気、乃救其萌芽。下工守其己成、因敗其形。(『霊枢』「官能」)

だから名医の気の取り方は、病を芽のうちにつみとるのである。藪医者は症状がはっきりあらわれてから手をくだすので、かえって患者の身体を悪化させてしまう。

【原文】逆之従之。逆而従之。従而逆之。疏気令調、則基道也。(『素問』「至真要大論」)

〔疾病に対しては〕逆治〔疾病の性質に相皮する方法〕と従治〔疾病の性質にしたがう治療法〕とをおこなう。逆治をほどこして、補助として従治をほどこす。または従治をほどこして補助に逆治を施すのである。いずれにしても、気を通じさせて調和させることが治療の要法である。

【原文】病在気、調之衛。(『素問』「調経論」)

病が気にあれば衛気をととのえる。

【原文】開腠理、致津液、通気也。(『素問』「蔵気法時論」)

毛穴を開き、津液を流通させ、気を通じさせる。

【原文】凡刺之道、気調而止。補陰写陽、音気益彰、耳目聡明。反此者血気不行。・・・・・・
凡刺之法、必察其形気。・・・・・・男内女外。堅拒勿出。謹守勿内。是謂得気。(『霊枢』「終始」)

そもそも刺鍼の療法は、気がととのえば目的は達成される。陰陽を補瀉すれば声はほがらかになり、耳目も聡明となる。これにさからえば血気はめぐらなくなる。・・・・・・
刺鍼の法においては、身体と気とを観察しなければならない。・・・・・・
男は深めに、女は浅めに刺す。正気をしっかり保持して出さぬようにし、体を慎重に守って邪気が入らぬようにする。これを得気という。

【原文】夫病変化、浮沈深浅、不可勝窮。各在其処。病間者浅之、甚者深之。間者小之、甚者衆之。隋変而調気、故曰上工。(『霊枢』「衛気失常」)

そもそも疾病は変化するもので、脈象には浮沈があり、刺法にも深浅があってきわまりがない。それぞれの症状に応じてその処方がある。病が軽いものに対しては浅く刺し、重い者に対しては深く刺す。軽いものは回数を少なくし、重いものは多くする。こうして変化にしたがって気を調整できれば名医といえる。

【原文】気有余於上者、導而下之。気不足於上者、推而休之。其稽留於不至者、因而迎之。必明於経隧、乃能持之(『霊枢』「陰陽二十五人」)

身体上部に病気があり余っているなら、〔下部に兪穴を取って〕これをみちびいてくだす。身体上部に正気が不足しているなら刺鍼をほどこし、気をおしあげて、しばらく鍼をとどめておく。もし遅滞して気が至らないようであるならば、迎え鍼をうつ。このように経脈の循行をあきらかにすることによって、はじめて針を使用できるのである。

【原文】此言気存亡之時、以候虚実而刺之。是故謹候気之所在而刺之。是謂逢時。(『霊枢』「衛気行」)

〔気の来去に応じて鍼の刺し方を区別するのであるが〕これは邪気がとどまっているか、去ってしまったかをいうのであって、疾病の虚実をうかがって鍼を刺すのである。だから注意して気の所在をうかがって刺すべきである。このことを時に逢うというのである。

【原文】刺之而気不至、無問其数。刺之而気至、乃去之、勿復鍼。・・・・・・刺之要、気至而有数、効之信、若風之吹雲、明乎若見蒼天。刺之道畢矣。(『霊枢』「九鍼十二原」)

鍼を刺しても気がいたらないからといって、回数にこだわってはならない。鍼を刺して気がいたってはじめてぬき去り、それ以上は刺してはならない・・・・・・。刺鍼の要法は気がいたることによって効果があらわれることであり、その効果のあらわれ方は風邪が雲を吹き飛ばし、青空がはればれとあらわれるようなものである。これで刺法の目的が達せられるのである。

【原文】形気不足、病気有余、是邪勝也。急写之。形気有余、病気不足、急補之。形気不足、病気不足、此陰陽倶不足也。不可刺之。・・・・・・形気有余、病気有余、此謂陰陽倶有余也。急写其邪、調其虚実。故曰有余者写之、不足者補之、此之謂也。・・・・・・
上工平気、中工乱脈、下工絶気危生。(『霊枢』「根結」)

身体と気が充実しておらず、病の気が余りあるならば、これは邪気がまさっているのである。だからすぐに瀉してしまう。身体と気が充実しているが、病で正気の不足するものは、ただちに補す。身体と気が充実せず、病で正気が不足するのは、陰陽の気が両方ともたりないのである。だから、刺鍼をおこなってはならない。・・・・・

身体と気が充実し、病の気が余りあるのは、陰陽がともに余りあるのである。ただちにその邪を瀉して、その虚実を調整する。そこで余りあるものを瀉し、足りないものを補すというのはこのことである。・・・・・・
名医は気を平らかにし、並みの医師は脈を乱し、藪医者は気を絶やして生命を危うくしてしまう。

【原文】吸則内鍼、無令気忤。静以久留、無令邪布、吸則転鍼。以得気為故、候呼引鍼。呼尽乃去、大気皆出、故命曰写。・・・・・・
必先捫而循之。切而散之、推而按之。弾而怒之、抓而下之、通而取之。外引其門、以閉其神。呼尽内鍼、静以久留、以気至為故。如待所貫、不知日暮。其気以至、適而自護。候吸引鍼、気不得出、各在其処、推闔其門、令神気存、大気留止。故命曰補。(『素問』「離合真邪論」)

息を吸いこむときに鍼を入れ、気を乱さないようにする。しずかに、しばらくそのままにして、邪気が拡散しないようにしておき、ふたたび息を吸いこんだときに鍼を左右にひねってすすめる。真気が得られて、もとどおりになったことをたしかめてから、息を吐くときに鍼をひきだしはじめる。息をはきおわったときに抜きされば、大邪の気はみな出ていってしまうので、これを瀉というのである。・・・・・・

はじめに鍼をうつ部位をもんで、気血をゆるませる。指でおさえて散らし、さらに強くおしてゆく。指ではじいて気を刺戟し、つまんで鍼をくだす。気を通じさせて、気を取り出す。鍼を兪穴から引きだすときには神気がぬけないように閉じておく。息を吐きおえてから鍼を入れ、しずかに、しばらくの間とどめておき、気がいたってもとどおりになるようにする。それはちょうど高貴な人を待つのに日が暮れることも忘れるように〔気長に〕おこなうのである。

気がいたったならば、それを調整して保持する。そして息を吸うのを待って鍼をひき、気をもらさぬようにし、おのおのの兪穴をおしとじて、神気を保存し、大経の気をとどめるのである。そこでこれを補というのである。

これらの気の理論を元にして、鍼を使わずに気を調節して病気治療をするのが医療気功である。
上級気功師になると、時空を超越した遠隔気功ができる。「そのメカニズムは、2007国際医学気功学会(中国・北京・上海)において学術論文として発表している」

 


                                                     続く